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完全無欠

投稿日時 2008-8-30 0:00:00
執筆者 rrb
んぜんむけつ…完璧なこと。どこから見ても欠点がなく、完成していること。
◇ちょっと予備知識 → 「完全」も「無欠」も欠けた所がないこと。
                類義語に完美無欠(かんびむけつ)・金甌無欠(きんおうむけつ)・
                十全十美(じゅうぜんじゅうび)がある。

加(みょうが)
「冥加」というのは、神仏のご加護という意味。京都では「そんなことしたら冥加に悪い」とか「冥加につきる」などと、この「冥加」ということばを大変よく使う。



子どもの頃、画用紙に絵を描いていて、まだ白い部分がたくさん残っているのに捨てたりすると、すぐ「そんな冥加の悪いことをして」と祖父母からしかられたものだ。物を粗末に扱ってはいけない、そんなことをすると神仏のご加護が受けられない、もっと倹約しなさい、という意味で使われている。主に大人が子どもに対していうことばだといえる。



思うに、京都人が「けち」といわれるのはこういったところが影響しているかもしれない。しかし、その根底に流れているのは、たとえ紙一枚でもその物が生きていると考えなさいという教えだそうだ。
たとえば紐で品物をくくる時、余ってしまった部分を普通は捨てるが、捨てずに残しておけばその短い紐でも十分に役立つときがある、そしてその紐にも生命があるのだから大事にしなさいということ。一般にいうところの「けち」とは少しその意味が違う。



この物を大事にするといったことが発展し、京都人は一見つまらないと思えるものにも、大層愛着を持つ。
たとえば、自分の本や鞄なども、もともと大量生産されたものなので、いくらでも同じ品が存在する。しかし、そんなことは十分わかった上で、数ある中からそのひとつを自分が選び出し、自分の手元に嫁入りさせたということは、その品自体、大変幸福であると考える。そしてその品を幸せにするために可愛がって、粗末に扱ったりしてはいけないと発想する。



不思議な縁で手に入れた品、そこに「冥加」という神仏のご加護や恵があって、はじめてその人の努力が実り、仕事や勉学ができるようになると考える。もし仮に、それがこわれて捨てなければならなくなったら、なんらかの思い(感謝)をもって捨てるように教え伝えられてきた。



自分が手にした品物に生命を吹きかけ、その物自体が喜びを感じるくらい大事にしなさい、という考え方は、決して京都人特有のものではないと思う。日本人の根底には同じ感性が少なからずあると思う。殺伐とした平成の時代にもう一度、そんな感性を思い出してみる必要があり、京都ではまだまだ暮らしの中にこういったことが息づいているという京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。

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