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疾風怒濤

投稿日時 2008-7-22 0:06:00
執筆者 rrb
っぷうどとう…強い風と逆巻く波。そこから時代や状況が大きく変化すること。動きがすばやいこと。激しい勢いで押し寄せること。
◇ちょっと予備知識 → もとは18世紀後半のドイツ文学、新潮流の訳語。自由や権威への反抗を旨とする。
                類義語に狂瀾怒涛(きょうらんどとう)・疾風迅雷(しっぷうじんらい)・
                暴風怒涛(ぼうふうどとう)がある。

半長右衛門
「妻も仕事もある四十男と、隣の家に住む十四歳の少女がのっぴきならない男女の仲に。少女は身もごり、ついには二人で桂川に身を投げて…」と、考えてみれば何ともセンセーショナルなお芝居。歌舞伎や文楽で度々上演される「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」は、京の商家が舞台の悲しき心中物語。主人公の男女の名から「お半長右衛門(ちょううえもん)」「お半長」と呼ばれ、彼らや家族の葛藤、情愛が京のまちを背景に描かれる人気狂言。
浄瑠璃では物語の舞台を「柳の馬場を押小路…虎石町の西側に」と記している。今の住所でいえば「中京区柳馬場通押小路下ル虎石町」。訪ねてみると、1869(明治2)年創業のかまぼこ店「茨木屋」がある。



この店ができる前、ここは、長右衛門が主(あるじ)だった『帯屋』という呉服関連の店だったと昔から言われているという。お半と長右衛門が亡くなったとされるのは、江戸中期の1761年。親子ほど年の差の離れた二人の死はすぐに芝居となり、噂に拍車を掛ける。
二人が亡くなった約150年後の1913(大正2)年にも、京都・南座の顔見世で「桂川−」が上演されている。その際には、二人の墓が残っている新京極の誓願寺で150回忌法要を営み、長右衛門を顔見世で演じていた人気役者の初代中村雁治郎も参詣したとあって、数千人が集まり、当時の新聞は「群衆は雪崩を打って押寄するといふ莫迦々々(ばかばか)しくも物凄い光景」と伝えているという。



それから50年後。1961年にも誓願寺で200回忌法要を営み、文楽の大夫らが参詣したという。
しかし、長く親しまれている「お半長」の物語の大部分は、実は脚色。虎石町に住んでいたお半と長右衛門の死体が当時、桂川で見つかったのは史実とされるが、本当は、長右衛門がお半を大阪に奉公に連れて行く道中に何者かに襲われたといわれている。



迷宮入りの事件を基に狂言作家たちが面白おかしく好き放題に書き、いつしか文化にまで昇華した心中噺を、墓中の二人はどう見守っているのだろう。間もなく二人の250回忌を迎える…今京都。


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