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縦横無尽

投稿日時 2008-10-8 0:00:00
執筆者 rrb
ゅうおうむじん…思う存分に行動すること。何の障りもなく、伸び伸びと自由自在であること。
◇ちょっと予備知識 → 「縦横」は縦と横、東西と南北。そこから、あらゆる方向の意。
                類義語に縦横自在(じゅうおうじざい)・縦横無碍(じゅうおうむげ)・
                自由自在(じゆうじざい)がある。

理的
京都人は論理的ではなく、物事を深く考えないといわれることがある。ある意味ではこれは的中しているという。京都人は、元来、物事を論理的にうまく言い表すことがヘタなのだという。しかし、この論理的に物事を見つめないところに京都人の知恵がある。



論理的に深く思考することで話が途中から横道にそれてしまうことがある。「大」が「小」になったり、「善」が「悪」になったり、「きれいなもの」が「きたなく」なってしまうことさえある。金閣寺がきれいだ、竜安寺もきれいだし、銀閣寺もいい、それだけでよい。三者を比べてどこがどうだと論理的に見つめることが、京都人はあまり好きではない。



京都で花嫁道具をご近所の人々に見てもらうのは、これだけ親に支度をしてもらったので見て欲しいという花嫁の感謝の心だという。他人と比べてどうだとか、見せびらかすためでは決してない。見せてもらう側も「あの娘さんお嫁に行かはる、よかったなぁ」と思う心が大切であり、それ以上、どこへとか、どんな人となどと詮索しだすと、本来のおめでたいと思う気持ちがどこかへいってしまう。



ひと頃、矢を射られた鴨の姿が連日テレビに映し出されたことがあったが、その鴨を見てただただ「かわいそうに」と思う、そんな発想が京都的なのだ。しかし、その一方で人間は鴨を食しているではないかという論評もあり、なるほどその論評も筋道が通っている。しかしながら、この事柄も論理的に深く考えることで「鴨がかわいそうだ」という本来の優しい感情がどこかにいってしまうことに、京都人は釈然としない。



京都人の直感の素晴らしさ。直感というのは、何も考えていないということではなく、その方が人間的な機微を表現するにふさわしいと考えている。そしてその判断が驚くほど正確なのだ。そこには京都人の感情を大切にする心が基本にあり、「しきたり」や「作法」を通して、京都人の暮らしの中に古より脈々と伝えられてきた洞察力があると思う。



幕末の頃、強靭は勤皇派、佐幕派の、どちらにもつかなかった。勤皇の志士たちが殺されるのも新撰組の人々が殺されるのも、同じ思いでかわいそうにと感じていたにちがいない。それは京都人が社会の情勢にうといというのではなく、どの時代においても、人と人がいがみ合うことが最も悲しいことだと考えていたのだろう。これが1200年の間、はげしい世の移り変わりを間近で見てきた京都人の哲学かもしれないという京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文と関係ないのであはからず。


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