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簟食瓢飲

投稿日時 2008-5-13 0:08:25
執筆者 rrb
んしひょういん…粗末な食事のたとえ。そこから、貧しい暮らしをしながら学問に励むこと。
◇ちょっと予備知識 → 「簟食」は、わりご(竹製の折り箱)1杯のご飯。
                「瓢飲」は、ひさご(瓢箪の器)1杯の汁物。
                孔子が弟子の顔回(がんかい)をほめたときに言ったことば。
                類義語に一汁一菜(いちじゅういっさい)・一簟一瓢(いったんいっぴょう)・
                顔回簟瓢(がんかいたんぴょう)がある。

七軒(通り名)
京都の花街のひとつの「上七軒」。ここには不思議な現象がある。その現象とは「通り名がない」ということ。今出川通の七本松を斜めに入って、上七軒のお茶屋さんが建ち並ぶ、そしてずっと行くと北野天満宮の東門へと続く。この通りに名がないという。



もっとも京都の場合、通りに名が必ずしもあるというわけではない。しかし、京都で最古の歴史を誇る花街、上七軒である。もし本当に通り名がないとしたら不便ではないだろうかと気になった。
まず手始めに住所を確認してみた。やはり通り名がなく「今出川通七本松西入ル」と書くそうだ。



「これでは南側にある今出川通との区別がつかないのではないか?」と不安になるが、郵便物はちゃんと届くとのこと。なんとも頼もしい京都の郵便局という感じがする。
次に、道路管理上ではどうなっているのかを調べてみたら、「翔鸞緯七号線」となっていることが判明した。しかし、この名前は地元の人でも知らないというから、またまた驚きである。



さらに調べていくうちに「この通りが旧今出川通であった」ということが判明してきた。つまりこちらが今出川通だというのだ。だとしたら、京都のピンポイントを示す法則(←クリック)から住所を「今出川通七本松西入ル」と書くのは間違いではないということだ。いや、むしろこのほうが正しいということになる。



江戸時代までは上七軒の通り名を「須磨町通(すまのちょうどおり)」といったそうだが、今はその名はどこにも残っていない。明治初年の地図では、上七軒の通りが既に今出川通となっている。つまり今出川通は、上七軒を通って北野天満宮の東門までの通りであったということだ。


(ブレブレのボロボロ写真で堪忍!)

では、七本松から西の現在の今出川通はどういったことかという疑問がわく。実は、これは市電最後の路線として開通した昭和30年代以降の新しい道なのである。北野天満宮までは、市電北野線のチンチン電車が南からのびていた。



1925(大正14)年には京福北野駅が今の上京署(旧西陣署)の南西に誕生して、白梅町まで線路が敷かれていた。今出川通に市電が走るまで、京福電車は北野白梅町駅からもうひと駅手前の「北野」が終点であった。上京署の近くには市電に関する石碑が建てられている。



天神さんの下ノ森は、市電北野線の終点と、郊外に行く京福電車の始発駅とで、ちょっとした西のターミナルになっていたのである。しかし、今は昔。現在、上七軒に通り名がないのは現実なのである。


(赤いラインが通り名のない上七軒)

北側の五辻通(いつつじどおり)、東の新七本松通と七本松通、西の御前通、それから南には今小路通(いまこうじどおり)、さらに図子にだって真盛図子(しんせいのずし)と名があるのに、肝心の上七軒の通りに名がないのはちょっと不思議であると思う。今回は「通り名」として取り上げたが、いずれ花街上七軒界隈の散策を特集したい…今京都。


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