フォトヴィレッジ

銭湯

投稿日時 2017-9-27 0:00:00
執筆者 rrb
京都の町撮りをしていて気づくことがある。意外と銭湯が多いということだ。お地蔵さんほどではないが、京都には銭湯と散髪屋が多い。

時代は戦乱の世にさかのぼる。東西両陣に分かれて10年もの戦いが続き、京の都をいちめんの焼け野原にしてしまった応仁の乱(1467〜1477)。その死闘の最中、日暮れて戦を中断すれば兵士たちは、町風呂・町湯に出かけ、ひと汗流していたという。「合戦の休業日」には皆こぞって銭湯へ行き、敵味方がお風呂で出くわすこともしばしば。敵も味方も一緒になって談笑したという逸話もある。

京に町風呂・町湯が目立って増えたのは、南北朝の戦いから応仁の乱前後のことらしい。銭湯の営業開始を告げる「ほら貝」や「角笛」で町のあちこちで鳴り響いていた。当時の銭湯はいわば流行りで、庶民だけでなく、公家たちも通った。

京の町風呂・町湯といわれるように、昔は「風呂」と「湯」が異なるものであった。「風呂」とは蒸し風呂で、今でいうサウナ。熱風で身体を蒸し、発汗させたのち、室外に備えた湯で身体を洗う。壬申の乱以来の歴史をもつ「八瀬のかま風呂」で知られるように歴史は古い。

もう一方の「湯」が、湯ぶねをもつ現在に近いかたちで、釜で沸かした湯を湯ぶねに引いたり、汲み入れたりした。しかし、大きな湯ぶねになみなみと湯を張るなどとは、昔は容易にできることはなかったと想像する。

ひとくちに風呂といっても、このように二種類が混在していた。そういえば、現在でも京の銭湯は「湯」という看板はあげているが、「風呂」とはどこにも書かれていない。しっかりと呼称の伝統を受け継いでいるということか。ちなみに江戸時代の秀でたタウンガイド「京羽二重」より「風呂屋」情報を調べてみると、掲載は洛中18軒。うち「丁字(ちょうじ)風呂」2軒、「釜風呂」4軒、「塩風呂」3軒などとなっている。どうも塩風呂が気になるね…という今京都。






《京都・あちこち》

以前に「銭湯物語」として掲載したね





フォトヴィレッジにて更に多くのブログを読むことができます。
http://www.rrbphotovillage.jp

このブログのURL
http://www.rrbphotovillage.jp/modules/rrbblog/details.php?blog_id=1644