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九牛一毛

投稿日時 2008-5-9 0:04:41
執筆者 rrb
ゅうぎゅういちもう…たくさんのもののうち、ほんのわずかな部分。ごく少数のもの。些細で取るに足りないこと。
◇ちょっと予備知識 → 「九牛」はたくさんの牛。多くの牛に生えた、たくさんの毛の中の一本の意。
                類義語に滄海一滴(そうかいいってき)・滄海一栗(そうかいいちぞく)・
                大海一滴(たいかいいってき)がある。

げくのはて
「あげくのはてに…」といわれると、そのあとにあまりいい話は予想できない。だいだい失敗談やら、行き過ぎた困った話が多いのだが、実はその手の話ほど聞いていて面白かったりする。



「あげくのはて」を広辞苑でみると「挙句の果て」とでている。その意味は「最後の最後。とどのつまり。結局」。しかし、この「挙句」の漢字づかいは間違いで「揚げ句」あるいは「揚句」でなければならないという人がいる。ちなみに広辞苑でも「あげく」だけを見ると「挙句・揚句」と両方の漢字が使われている。



「あげく」は「挙句」ではない「揚句」であるとする人々の根拠は、その語源が連歌・連句にあるからだという。
すなわち「揚句」とは、連歌・連句の最終句である七・七の句のこと。これに対して最初の五・七・五は「発句」とよばれる。連歌・連句の言葉としては「挙句」ではなく「揚句」が正しいと主張する。



その論議は専門家におまかせして「揚句」または「挙句」はおしまいの七・七の句のことだから、そこから転じて「最後の最後。とどのつまり」をこういうようになったらしい。
連歌では五・七・五の「発句」が詠まれたあと、次の人が七・七の「揚句」を詠むのがルールだ。こうして五十韻、百韻、千句と詠み連ねていく。他の人が詠んだ発句に対して、そんなにすらすらと揚句がでてくるものではない。



「揚句の果て」には、そうした歌詠みの苦悩がにじんでいる。そうした苦しまぎれの「あげくのはて」に案外、後世に残る傑作が生まれたりしたのではなかろうか。
ところで「とどのつまり」などと辞書にでてくると、その意味やその語源をまたまた調べなければならない。



「とどのつまり」はよく知られる語源だから、ご存知の方も多いだろうが、トドは魚で、ボラがさらに大きくなったときの呼び名。ボラは幼魚のときの名前がオボコ、スバシリ。淡水に棲むころはイナ、海に帰って成魚になるとボラ、さらに大きくなるとトドと名前を変えていく。



そこで「最後の最後。つまるところ」が「とどのつまり」。しかし「とどのつまり」が、京都に生まれた言葉だといえる確証は何もない。
海のない京都にこういう言葉はうまれそうにないので「とどのつまり」はここでは取り上げない。



と、「あげくのはて」は「とどのつまり」の話になってしまったが、京の都の連歌師たちの苦悩がにじむ「あげく」であった。
いずれにしても「あげくのはて」は、意外なことに語源が京都にあった言葉のお話vol.18…今京都。前回の語源は「二枚舌」(←クリック)。※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。


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