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文章題の非現実性

投稿日時 2017-6-23 0:00:00
執筆者 rrb
先日、小学校算数の文章題を目にすることがあり、見ていて気づいたことがある。
それは、算数の「文章題」は、本来ならば、「たす」とか「ひく」とかの演算操作の本当の意味を、現実の問題状況のなかで考えさせるというところに主眼があるべきではないか。ところが多くの場合「文章題」の文章は、日常用いる文章とは異質の、いかにも奇妙な文章であり、まともに「文章から意味を引き出そう」などと考えるとわけがわからなくなる。「文章題」とは「答えの出し方」という儀式(計算のしかた)が決まっていて、どの儀式を取り行うべきかを決めるKEY WORDが必要最小限に埋め込まれた「文章」ということだ。つまり、文章題の非現実性ということだ。

たとえば、「あめが7つあります。4つもらうと、ぜんぶでいくつになりますか?」という問題。この文章で、まず「もらう」という語でひっかかる。「もらう」という言葉は誰かが誰か他の人から「もらう」ということだが、この文章には登場する人物が全くいない。さらに最初の「あめが7つあります」は、ただそこにあるだけなのか、それとも誰かの所有物なのかわからない。そのあとに「ぜんぶ」という語がでてきても、はじめの7つとあとの4つを合計してよいのかどうかも判断つかない文章である。

学校では、「答えを出す」ということを、何かしら「正しい手順」に従ってとり行う儀式のように考えてしまいがちなのかもしれない。授業では、どういう種類の「問題」のときは、どのような「答えの出し方」に従った儀式をとりおこなうべきか、まずその模範を「例題」で示す。例題では儀式の執行にあたっての注意すべきところが説明され、そのあとは「応用問題」や「演習問題」で、儀式の練習をする。

先の文章を考えた人は、「もらう」を「たす」という儀式と結びつけ、「たす」という儀式を執り行わせようとすることだけに意識が向き過ぎ、その場の状況はどうでもよい文章としてしまっているのではないか。せめて、「花子さんはアメを7つ持っています。おばあさんからアメを4つもらいました。花子さんは全部でいくつのアメを持ちましたか?」くらいにしても罰は当たらんのでは…と、天を仰いで思うこと。

突然、どないした? もしかして学校教育に興味を持った?





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