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今出川の盛衰

投稿日時 2016-10-27 0:00:00
執筆者 rrb
今出川は、平安時代「中川」「京極川」と呼ばれていた。平安京の造営にあたって人工的に掘られた川で、川沿いには平安末期から鎌倉前期の歌人・藤原定家など貴族の邸宅が建ち並んでいたという。それがなぜ「今出川」という名になったか。

江戸時代の京の都の様子を描いた「中昔京師地図(なかむかしきょうしちず)」は、今出川を「この水、雲ケ畑の中津川より来る」としている。中津川は中川のことで、いったん鴨川に合流した中津川の水が再び分出した際、まるで今出てきたように見えることから「今出川」となったという。

現在の東洞院通から南下した今出川は、現在の今出川通で日本の川筋に分流。一本の川筋はそのままなんかして現在の一条通で東へ流路を変更。もう一本の川筋は現在の今出川通を東へ流れて現在の寺町通で南下。二本の川筋は現在の寺町一条で再び合流し、そのまま現在の寺町通を南下し、鴨川に流れ込む。

その後、都市化に伴って今出川の流路は徐々に地下化された。大正初期には、現在の同志社大学前から河原町通にかけて残っていたが、1917(大正6)年、京都市電今出川線の烏丸今出川から寺町今出川までの延伸工事の際、今出川は暗渠となった。京都の川は基本北から南の縦に流れるが、今出川は西から東に、つまり横に流れていた部分が最後まで残っていたため東西の通り名として現在に至っているのである。

これが「今出川」の盛衰であり、「今出川通」の由来であろう…という今京都。


《京都・堀川…写真と本文は関係ない》

京都で横に流れる川があったというのは意外や。それにしても久々の調査やったね





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