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眼をさますときの気持ち

投稿日時 2016-3-9 0:00:00
執筆者 rrb
文豪と言われる方々の作品を読み返しているが、とても考えさせられる。昨日の『走れメロス』もそうだが、『女生徒』もだ。14歳の女生徒が朝起床してから夜就寝するまでの一日を主人公の独白体で綴っているものであるが、冒頭から考えさせられる。

あさ、眼をさますときの気持は、面白い。」とはじまる。その気持ちの説明に、まず、「かくれんぼ」がでてくる。押入れの中に、じっと隠れていて、見つけられたときの感じを取り上げているが、違うと否定。「なんだか、もっとやりきれない。」として、次に、ロシアのマトリョーシカ人形を想像させる入れ子構造の箱がでてくる。「箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。」というのだ。

自分の目を覚ますときの気持ちを探るが、なんだが違うような気がする。

さらに、「パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ。」とし、「朝は健康だなんて、あれは嘘。朝は灰色。いつもいつも同じ。一ばん虚無だ。朝の寝床の中で、私はいつも厭世的だ。いやになる。いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶ええしちゃう。朝は、意地悪。」と続く。

なんとなく共感している自分がいるが、自分の朝の目覚めはどうなのだろうと再び考える。突然、けたたましいアラームの音にたたき起こされる。あるいは、アラームが鳴る前に目覚める。しかし、これは状況であり、目を覚ますときの気持ちではない。目覚める寸前なんて意識していない。「目を覚ますときの気持ち」ってどんなのだろう。「目が覚めたとき」ではなく「目を覚ますとき」である。失った意識が徐々に戻っていく感じなのか、無音から徐々に音量が上っていく感じなのか。それを太宰のように表現するならば、何を例としてあげるだろうか。考えても思いつかない。しばらくは「目をさますときの気持ち」探索に走りそうだ…ということで、どうも、おやかまっさんどした。


《京都・嵐山》

おやおや、またまた変なツボにはいっちゃったよ、大丈夫? 昔からそういうとこあるからなぁ…





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