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さいはらい

投稿日時 2010-1-19 0:00:00
執筆者 rrb
いはらい
はたき。塵払い。「サイハライで掃除したもんや」 サイは「裂き」から。はたきは布や紙を裂いて作るのでいう。掃除をするとき障子の桟(さん)のゴミを取るのに用いた。電気掃除機の普及によって、しだいに使用されなくなった。『日本国語大辞典』は『北辺随筆』(1816)を引用して「今俗、さいはらひといひて絹・紙などをさきて、小竹にゆひつけ、塵を払ふ具とす」とある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

原牛乳
京都市内を散策していると、牛乳箱に「松原牛乳」という文字を見ることが多い。明治でも森永でもなく、何故「松原牛乳」なのか気になったので、その謎を探ってみた。



「ボーイズ・ビー・アンビシャス(少年よ大志を抱け)」と、クラーク博士が札幌農学校を開いたのは、1876(明治9)年のこと。これよりも早く、京都市内に西洋風の牧場があったという。いちめん白いダッチ・クローバにおおわれた牧場に、羊や牛がのんびり草をはむ光景が広がっていたとのこと。ちょっぴり信じがたいこのお話、牧場があったのは真実なのである。



舞台は1872(明治5)年。当時の知事は勧業政策のひとつとして、日本のさきがけとなる京都牧場をつくった。場所は、荒神橋を渡った鴨川の東岸、吉田下阿達町から聖護院川原町の旧練兵場敷地に設置。もとは聖護院領で、聖護院の森が広がっていた。現在は京大病院が広い敷地をもつあたりである。米国から牛や羊を買い入れて、ドイツ人ションソンやアメリカ人農牧師ウィードを招聘し、近代的牧畜の振興をはかった。牛乳の効能をPRしながら、しぼりたての牛乳を一合五銭で販売し、バター、練乳、粉乳の製造を手がけた。また羊の毛を刈り取って、希望者に販売もしたという。



やがて、牛や豚の飼育が進みはじめると、1876(明治9)年には京都府船井郡須知村蒲生野に分場を開設。クラーク博士の札幌農学校と時を同じくして、ウィード教授による京都府農牧学校が誕生した。北の大地ばかりではない、京都の「黒ぼく(農耕に適した腐植土質の土地)の大地」にも大志を抱いた青年が各地から集まってきた。授業はアメリカの教科書、農具を用いて、すべて英語で行われたという。



しかし、ウィード教授の任期満了とともに、この農牧学校はわずか3年で、1879(明治12)年に廃校なり、続いて市内、鴨川東岸の牧畜場も1880(明治13)年、民間に払い下げられてしまった。当時の関係者は、同志社英学校を創設した新島襄(にいじまじょう)を介し、札幌より帰米したクラーク博士に依頼して、ウィード教授の後任を求め存続をはかろうとしたものの、実現を見ずに終わったのだという。



京都府農牧学校は、駒場農学校(現・東京大学農学部)、札幌農学校(現・北海道大学農学部)とともに、日本三大農業教育発祥の地であっただけに、もしその後も存在していれば、大学にもなりえた学校であった。その跡を示す記念碑はいま、京都府立須知高校正門前手前、左側の小さな池畔に「黒ぼくの大地を拓いた人々」という碑文が刻まれて建っている。



鴨川の東岸では、京大東南アジア研究センターの前庭に「明治天皇行幸所牧畜場跡」(明治10年2月1日)の碑がある。かつて「おらんだ・げんげ」と呼ばれて、この一帯に白い花を咲かせたダッチ・クローバは、わが国で初めて輸入され、植えられたものだ。荒神橋から丸太町橋あたり、鴨川の東岸河原でクローバを探してみよう。もしみつかったら、それは明治の香りを伝える「おらんだ・げんげ」の子孫かも知れない。



この牧畜場から京都市内・五条通以南の牛乳配達人を命じられたのが松原栄太郎。のちに御所御用達の「京の牛乳」として知られた松原牛乳の発祥であった。こうして京都の牛乳箱には「松原牛乳」という文字が増えることになる。明治でも森永でもなく「松原牛乳」が多いのはこういうことであった…今京都。 ※本文と写真は関係ないのであしからず。


 




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