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抜山蓋世

投稿日時 2008-3-13 0:11:30
執筆者 rrb
つざんがいせい…勢力や気力が強大で盛んなこと。
◇ちょっと予備知識 → 山を抜き取るほどの勢いと、世間を覆い尽くすかと思える気力にあふれていること。
                類義語に抜山倒河(ばつざんとうか)・抜山翻海(ばつざんほんかい)・
                回山倒海(かいざんとうかい)がある。

抱地蔵(かいほうじぞう)
京都市の中心部、中京区福屋町の一角に介抱地蔵という名前のお地蔵さんが立つ。延命地蔵はよく聞くが、介抱の名はほとんどないと思う。介抱地蔵は石像で、高さ40cmほど。普段はほこらの中に大切に収まっている。
町内の歴史に詳しい方の説明によると、弘法大師の作と伝えられ、町内にいつの時代からあるかははっきりとしない。という。



住人らの話をまとめると名前の由来は江戸時代中期にさかのぼる。元禄のころ、町内に老女と子どもが住んでいた。日ごろからこの地蔵を信心し、朝と夕暮れにお参りしては花を供えていた。ある時、老女は病気で寝込み治療を尽くしたが、回復する様子がない。しかし、不思議なことに毎夜、老女の枕元に僧侶が来て、地蔵菩薩などの言葉を授けて介抱し、湯薬を与えた。老女はますます信心を深くし、ついに病気が治ったという。
それから、老女と子は信心を怠らず、地蔵は介抱地蔵と呼ばれた。心を込めて祈れば、ほうそうや疫病が治り、安産の願いもかなったと伝わる。



1788(天明8)年、京都で大火が起こった。この地蔵も火に包まれると思われたが、若い男が現れ「石像は任せてください」と、どこかに運んで行った。住民は悲しんでいると、その男が再び現れ地蔵を戻した。住人は地蔵が残ったのは地蔵大菩薩の霊験だと信じ、代々に渡り守ってきたという。



町内には、地蔵を描いた掛け軸も伝わる。江戸後期の絵師で、町内に住んでいた多村挙秀が描いた逸品で、地蔵菩薩のようにほほえむ姿は心を和らげてくれるという。
多村挙秀(1789〜不詳)は、姓が清原、名は久成。挙秀は号。円山応瑞の門人といわれ、安政の御所造営で御涼所上御間などを担当したという。



地蔵盆では地蔵とともに、掛け軸も出し、その前に祭壇をつくる。お地蔵さんを飾り付け、町内の長老にお経をあげてもらって、町をあげてお祭りする。福屋町は約40世帯の小さな町内だが、今も住人が順番に世話を欠かさない。約20年、花を供えほこらの周りのそうじを欠かさなかった方もいるという。



「特別なことはしてません。ずっと町内で大切にされてきましたから」と、町内の方は語る。信仰を集める町内の宝は住人に守られ、静かに人々の幸せを見守っているようだ…今京都。


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