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おやかまっさん ゲレンデでのお作法/大人たばこ養成講座 2015/12/15 12:00 am
今の時代、喫煙者を悪者のように扱うところがあるが、大人な喫煙者は嫌いではない。むしろ学生とか若者の喫煙者のポイ捨てやツバを吐くようなマナーの悪さには嫌気がさす。随分と前の話であるが、『大人たばこ養成講座』という本を手に入れた。受動喫煙が話題となり、喫煙者が世の中の隅に追いやられような時にJTが非売品で発行したものだ。各シーンでの作法を15項目で書き上げており、読み物としては楽しめる。今回はその中から紹介しよう。
《ゲレンデでのお作法》
(1)準備運動を怠らないこと。スキー場の音楽に素直に心踊らせること。
(2)たばこで心もほぐすこと。煙のような曲線を白銀にイメージすること。
(3)外に出たら、必ず灰皿を携帯すること。たばことライターは濡れないよう、内ポケットにしまうこと。
(4)スキーヤーとスノーボーダーは心の中でいがみ合わないこと。コース場では特に衝突しないこと。
(5)リフトはきちんと並ぶこと。レディが横に来たら、さりげなくリフトを手で押さえてあげること。
(6)喫煙できるリフトでも決してポイ捨てしないこと。火をつけるのに夢中で、手袋などを落とさないこと。
(7)ボーゲンの内股を恥じないこと。七転び八起きの雪だるま精神でがんばること。
(8)滑ることを楽しみながら、景色も楽しむこと。しかし前方には常に注意を払うこと。
(9)こけている女性を見つけたら、勇んで手を貸すこと。真冬のホットな恋を予感すること。
(10)その際、彼女のふたつの山並みに指先を滑らせ、谷間に直滑降したいなどと妄想しないこと。
(11)立ち入り禁止区域に近づかないこと。谷底への決死のジャンプ競技をしないこと。
(12)一服がてら、がくがくの足を休めること。煙も人にぶつからないよう配慮すること。
(13)ありえない方向に足などが曲がっちゃった場合、周りの人に救助隊を読んでもらうこと。
(14)ゴミ箱が近くにないからといってゴミを雪の中に埋めてごまかそうとしないこと。
(15)レストハウスに入る前、雪をよく落とすこと。アフタースキーでは気になるあの子を落とすこと。
こんな感じだ。結構、楽しめる…ということで、どうも、おやかまっさんどした。



《ゲレンデでのお作法》
(1)準備運動を怠らないこと。スキー場の音楽に素直に心踊らせること。
(2)たばこで心もほぐすこと。煙のような曲線を白銀にイメージすること。
(3)外に出たら、必ず灰皿を携帯すること。たばことライターは濡れないよう、内ポケットにしまうこと。
(4)スキーヤーとスノーボーダーは心の中でいがみ合わないこと。コース場では特に衝突しないこと。
(5)リフトはきちんと並ぶこと。レディが横に来たら、さりげなくリフトを手で押さえてあげること。
(6)喫煙できるリフトでも決してポイ捨てしないこと。火をつけるのに夢中で、手袋などを落とさないこと。
(7)ボーゲンの内股を恥じないこと。七転び八起きの雪だるま精神でがんばること。
(8)滑ることを楽しみながら、景色も楽しむこと。しかし前方には常に注意を払うこと。
(9)こけている女性を見つけたら、勇んで手を貸すこと。真冬のホットな恋を予感すること。
(10)その際、彼女のふたつの山並みに指先を滑らせ、谷間に直滑降したいなどと妄想しないこと。
(11)立ち入り禁止区域に近づかないこと。谷底への決死のジャンプ競技をしないこと。
(12)一服がてら、がくがくの足を休めること。煙も人にぶつからないよう配慮すること。
(13)ありえない方向に足などが曲がっちゃった場合、周りの人に救助隊を読んでもらうこと。
(14)ゴミ箱が近くにないからといってゴミを雪の中に埋めてごまかそうとしないこと。
(15)レストハウスに入る前、雪をよく落とすこと。アフタースキーでは気になるあの子を落とすこと。
こんな感じだ。結構、楽しめる…ということで、どうも、おやかまっさんどした。



rrbはスノボーはからっきしだけど、スキーはバッジ1級並だったよね
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◆◆なう 明智川−光秀と水路 謎伝え− 2015/12/14 12:00 am
かつて宿場町として栄えた風情が残る京都市西京区樫原地域。その中心部を通る旧山陰街道の所々に、住民でつくる「樫原町並み整備協議会」が散策者向けに作った駒形の札が立てられている。
そのうちの一つ、静かに流れる用水路「洛西西幹線」脇の札は、その水路が別名「明智川」と呼ばれる由来を説明する。
札によると、1582年6月2日、本能寺の変で主君の織田信長を討った直後の明智光秀が山陰街道を経て領地に向かう途中、樫原で落馬した。年老いた村人は光秀と気付かないまま、おにぎりを差し出すなど親切な振る舞いを見せた。
光秀は「東で燃えさかる炎はどこの火か。当てれば望みをかなえよう」と問い、村人は「あれは本能寺です」と答えた。感激する光秀に、村人が「田を潤す水が欲しい」と頼み、光秀は直ちに着工した。こうして渡月橋上流の一ノ井堰(せき)を起点に樫原を通り、長岡京市へ続く洛西西幹線の原形が誕生したという。
しかし、札の説明書きは後半部分で「これはいささか矛盾する」と伝説を自ら否定する。光秀は数日後に天王山の戦いで豊臣秀吉に敗れており、着工しても完成は難しかったと思われるからだ。そして本能寺の変後ではなく、1570年代後半の丹波平定に伴い、光秀が一帯に道路やため池を造った時、一緒に水路を整備したのだろうと、用水路が「明智川」と呼ばれる理由を推測している。
樫原周辺は5世紀ごろ朝鮮から渡来した秦氏が開墾し、古くから農業が盛んな地域。地元の言い伝えはさまざまで、基礎になる水路は秦氏が造り、明智光秀が再整備したという話もある。
戦後まで、樫原は旧山陰街道筋に民家や商店があるほかは田畑ばかりだったが、高度経済成長に伴って一気に住宅開発が進んだ。洛西西幹線も今は両側を民家に囲まれ、底と側壁はコンクリートで固められている。いつ誰が造ったかはっきりしなくても、水路が水不足に悩む一帯の農家を潤してきたのは確かなことだ
樫原は、丹波、山陰地方と京都を結ぶ旧山陰街道で都を出て最初の宿場町があった地域。国道9号から交差点「千代原口」を南進し、京都市バス停「樫原」すぐ近くの交差点北西角に「明智川」の駒札がある。旧宿場町は東西約1キロ続き、参勤交代の途中に諸大名が休んだ「玉村家住宅」や、年貢米など物資を保管した「郷倉」など歴史遺産が数多く残る。
カテゴリを無視して京都の話題にしてみた…という神戸なう。



そのうちの一つ、静かに流れる用水路「洛西西幹線」脇の札は、その水路が別名「明智川」と呼ばれる由来を説明する。
札によると、1582年6月2日、本能寺の変で主君の織田信長を討った直後の明智光秀が山陰街道を経て領地に向かう途中、樫原で落馬した。年老いた村人は光秀と気付かないまま、おにぎりを差し出すなど親切な振る舞いを見せた。
光秀は「東で燃えさかる炎はどこの火か。当てれば望みをかなえよう」と問い、村人は「あれは本能寺です」と答えた。感激する光秀に、村人が「田を潤す水が欲しい」と頼み、光秀は直ちに着工した。こうして渡月橋上流の一ノ井堰(せき)を起点に樫原を通り、長岡京市へ続く洛西西幹線の原形が誕生したという。
しかし、札の説明書きは後半部分で「これはいささか矛盾する」と伝説を自ら否定する。光秀は数日後に天王山の戦いで豊臣秀吉に敗れており、着工しても完成は難しかったと思われるからだ。そして本能寺の変後ではなく、1570年代後半の丹波平定に伴い、光秀が一帯に道路やため池を造った時、一緒に水路を整備したのだろうと、用水路が「明智川」と呼ばれる理由を推測している。
樫原周辺は5世紀ごろ朝鮮から渡来した秦氏が開墾し、古くから農業が盛んな地域。地元の言い伝えはさまざまで、基礎になる水路は秦氏が造り、明智光秀が再整備したという話もある。
戦後まで、樫原は旧山陰街道筋に民家や商店があるほかは田畑ばかりだったが、高度経済成長に伴って一気に住宅開発が進んだ。洛西西幹線も今は両側を民家に囲まれ、底と側壁はコンクリートで固められている。いつ誰が造ったかはっきりしなくても、水路が水不足に悩む一帯の農家を潤してきたのは確かなことだ
樫原は、丹波、山陰地方と京都を結ぶ旧山陰街道で都を出て最初の宿場町があった地域。国道9号から交差点「千代原口」を南進し、京都市バス停「樫原」すぐ近くの交差点北西角に「明智川」の駒札がある。旧宿場町は東西約1キロ続き、参勤交代の途中に諸大名が休んだ「玉村家住宅」や、年貢米など物資を保管した「郷倉」など歴史遺産が数多く残る。
カテゴリを無視して京都の話題にしてみた…という神戸なう。



現地の写真が見たい〜! そろそろ以前のように取材ぽくしてみたら?
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天を仰いで思うこと 神頼み、恩恵は誰に? 2015/12/11 12:00 am
職場の後輩が伊勢に行ってきたらしい。目当てが伊勢神宮への「出会いの神頼み」らしい。お土産を頂戴するときに交わした会話を少し披露しよう。
本人いわく、「神頼みで出会いがあるのであれば、世の中既婚者だらけになる」とのことだ。「現実をも受け入れていながらの神頼み?」と疑問がわくが、そこは触れずにいた。
さらに、「神頼みに行くのは圧倒的に女性が多く、世の男性はその恩恵を受けている」と、隣席の男子諸君を見ながら言っていた。
確かにそうかもしれない。縁結びなどの神社にいくのは女性のほうが多いだろう。そして「□□神社に参拝に行ったら、即出会った」というようなことを見聞きすることがある。それにしてもなぜ女性は縁結びの神社に行くのだろう? そんなに出会いが必要なのか? 焦らずとも時が来れば出会うという考えは甘いのか。
ひとつ気がついたことがある。出会いを求めている女性は24〜28歳に多いような気がする。それは「旬」というものを意識してのことか…。ん〜…持ち合わせていない感性なのでよくわからない。しかし、とにかく、出会いを追っかけるのは女性で、その恩恵を受けているのが男性という展開は否定できないかも…と、天を仰いで思うこと。




本人いわく、「神頼みで出会いがあるのであれば、世の中既婚者だらけになる」とのことだ。「現実をも受け入れていながらの神頼み?」と疑問がわくが、そこは触れずにいた。
さらに、「神頼みに行くのは圧倒的に女性が多く、世の男性はその恩恵を受けている」と、隣席の男子諸君を見ながら言っていた。
確かにそうかもしれない。縁結びなどの神社にいくのは女性のほうが多いだろう。そして「□□神社に参拝に行ったら、即出会った」というようなことを見聞きすることがある。それにしてもなぜ女性は縁結びの神社に行くのだろう? そんなに出会いが必要なのか? 焦らずとも時が来れば出会うという考えは甘いのか。
ひとつ気がついたことがある。出会いを求めている女性は24〜28歳に多いような気がする。それは「旬」というものを意識してのことか…。ん〜…持ち合わせていない感性なのでよくわからない。しかし、とにかく、出会いを追っかけるのは女性で、その恩恵を受けているのが男性という展開は否定できないかも…と、天を仰いで思うこと。




確かに「一番恩恵ょ受けているのは誰?」って感じだね
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今京都 会話 2015/12/10 12:00 am
こらっ、スズメくん! 出てこい!
んっ!? な〜に?
「な〜に?」ではない。昨日の〆のコメントはどういうつもり?
えっ、何か言ったっけ?
とぼけんじゃな〜い、ご利益にかかわらずやったほうがよい、だって〜
おまけに、隠れコメントで「恋ぐらいしろ」だって〜
イヤ…あの…その…そろそろ色っぽい話があってもよい頃かと…
うっせぇ〜、ほっとけ〜〜〜
た、たしかに…、でも、合コンとかは?
なに〜!? 合コンだぁ!? てめぇ〜喧嘩売ってんのかぁ
イヤ、喧嘩は売ってないよ。気に障ったなら、謝るよ〜、すみません!
「いいよぉ〜」って、吉本新喜劇のノリはせんよ!
今度、吉本新喜劇をおごるから…ね
ホンマ? じゃ、許してあげる。やっと目が覚めてきた。スズメさん、ありがとう
な、なに? 眠気覚ましに僕をいたぶった?
そう、眠気覚ましにはスズメさんをいたぶるのが一番や〜
あちゃ〜、日ごろは想定外に優しいのに…おかしいと思った…
こうして職場の人や僕は、何かにつけていたぶられるのであった…



rrbは本当は優しいんだよ、僕は知っている
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今京都 首振地蔵−借金苦の幇間供養− 2015/12/09 12:00 am
記念写真を撮る観光客が後を絶たない清水寺正面の仁王門前。楽しそうにポーズをとる光景を、一体のお地蔵さんが、ほほ笑ましい表情で眺めている。
仁王門下の石段の北側にある同寺「善光寺堂」の敷地内に、「首振(くびふり)地蔵」と呼ばれる地蔵が立つ。御影石でできており、高さは50cm。普通の地蔵なら動かないはずの首が左右に360度回る。駒札には「願い事のある方向に首をまわして拝めば願いがかなえられるといわれ、江戸時代以来、衆庶の深甚な信仰を伝統している」とある。
同寺に伝わる話では、江戸中期、祇園の芸妓たちが、親身になって客のだんな方を世話してくれた鳥羽八という名前の幇(ほう)間(たいこ持ち)をしのんで奉納したとされる。首が回るのは、散財し過ぎて借金で首が回らなくなって亡くなったのを気の毒に思い、供養の思いを込めたとも言われる。
今の首振地蔵は「二代目」。江戸中期につくられたとされる「初代」は、二代目の背後の格子戸の中にある。20年ほど前、初代は観光ガイドやタクシー運転手の間で隠れた名所として存在が広まった。連日多くの観光客が首を回したため、首を支えている軸の部分がすり減り、頭が落ちることもあった。厨子(ずし)の内部に納めても扉を開けて回す人が後を絶たず、扉を閉ざして回すのを禁止した。ところが不評を買ったため、同寺は地蔵を新調することにした。
ただ、新調は思うように進まなかった。石屋さんが『首の切れた地蔵さんなど作れない』と作るのを嫌がったのである。説得に一年以上かかり、ようやく納得して作ってくれたとのことだ。なんでも渋る職人さんに「これは地蔵さんではないから」と説得したそうだ。
太鼓持ちの姿を模しているため、ずきんを取ると頭にちょんまげがあり、よだれかけに隠れた手には扇子を持っている。羽織のような着物も着ている。今も多くの観光客が首を回し、手を合わせる。同寺が各地で開催する「出張開帳」でも、本尊に並ぶ人気を集める。ただ拝むだけでなく、触れることで一体感を持てるからかもしれない。
善光寺堂は、鎌倉時代末期に作られた如意輪観音像などが安置されている。善光寺堂の前にある小さな厨子に、首振地蔵は置かれている。厨子は1990年に全京都建築高等職業訓練校の生徒らが建てた。恋を成就させようと、思いを寄せる人の住む方角へ地蔵の頭を向ける人が多いというが、さてご利益のほどはどうなんだろうね、羅漢さん…という今京都。



仁王門下の石段の北側にある同寺「善光寺堂」の敷地内に、「首振(くびふり)地蔵」と呼ばれる地蔵が立つ。御影石でできており、高さは50cm。普通の地蔵なら動かないはずの首が左右に360度回る。駒札には「願い事のある方向に首をまわして拝めば願いがかなえられるといわれ、江戸時代以来、衆庶の深甚な信仰を伝統している」とある。
同寺に伝わる話では、江戸中期、祇園の芸妓たちが、親身になって客のだんな方を世話してくれた鳥羽八という名前の幇(ほう)間(たいこ持ち)をしのんで奉納したとされる。首が回るのは、散財し過ぎて借金で首が回らなくなって亡くなったのを気の毒に思い、供養の思いを込めたとも言われる。
今の首振地蔵は「二代目」。江戸中期につくられたとされる「初代」は、二代目の背後の格子戸の中にある。20年ほど前、初代は観光ガイドやタクシー運転手の間で隠れた名所として存在が広まった。連日多くの観光客が首を回したため、首を支えている軸の部分がすり減り、頭が落ちることもあった。厨子(ずし)の内部に納めても扉を開けて回す人が後を絶たず、扉を閉ざして回すのを禁止した。ところが不評を買ったため、同寺は地蔵を新調することにした。
ただ、新調は思うように進まなかった。石屋さんが『首の切れた地蔵さんなど作れない』と作るのを嫌がったのである。説得に一年以上かかり、ようやく納得して作ってくれたとのことだ。なんでも渋る職人さんに「これは地蔵さんではないから」と説得したそうだ。
太鼓持ちの姿を模しているため、ずきんを取ると頭にちょんまげがあり、よだれかけに隠れた手には扇子を持っている。羽織のような着物も着ている。今も多くの観光客が首を回し、手を合わせる。同寺が各地で開催する「出張開帳」でも、本尊に並ぶ人気を集める。ただ拝むだけでなく、触れることで一体感を持てるからかもしれない。
善光寺堂は、鎌倉時代末期に作られた如意輪観音像などが安置されている。善光寺堂の前にある小さな厨子に、首振地蔵は置かれている。厨子は1990年に全京都建築高等職業訓練校の生徒らが建てた。恋を成就させようと、思いを寄せる人の住む方角へ地蔵の頭を向ける人が多いというが、さてご利益のほどはどうなんだろうね、羅漢さん…という今京都。



ご利益があるならやってみる? イヤ、ご利益がなくてもやったほうがいいのでは?