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今京都 路地 2016/05/03 12:00 am

実際に入ったことはあまりないが、京都・木屋町にはこういう路地がたくさんある…という今京都。





ゴールデンウィークやし、あっさりとなん?

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おやかまっさん 八つ当たり風潮 2016/05/02 12:00 am

現代社会は何処彼処で不機嫌さの“とばっちり”を受けることが多くなった。たしなめるように事実確認しても、興奮し主張はエスカレートしていく。時として暴走する八つ当たりは、物事の本質的な改善にはつながらない。ある本には次のようなことが掲載されていた。

30年前の日本―銀行の窓口でも、スーパーのレジでも、列車が遅れて到着しようが、ともかくひたすらそれを甘受する。辛抱強く、並んで自分の番が来るまで待つ。
20年前からの日本―「業務連絡、業務連絡。□□さん、△△番レジにお回りください」 こういうアナウンスを頻繁に耳にする。これは「早くしろよ」という怒声が飛ぶか、「もう一つ窓口をあけろ」という要求が出ることに呼応するものだ。

最近、日本のサービス過剰ぶりの異常さと、不機嫌な気分が漂っている。次は、その例だ。

いつもその店に牛丼を食べに来る初老の男性。接客マニュアルどおりに牛丼、みそ汁を配置して出す。その男性は左利きなので、自分で並べ直してから食べる。ある日、その男性が突然、店員に怒り始める。「おまえは俺がいつもここに食べに来ていることを知っているやろ? なんで俺のクセをわかって並べ直して出さないんだ!」と。

世の中の不機嫌な気分が醸し出す八つ当たり的なものだ。ストレス社会ともいわれる現代社会の特徴だろうか。熊本地震に関連した芸能人のSNSへのバッシングなんかもその一連かもしれないが過剰すぎる。先日掲載したように「 不謹慎狩り 」という言葉まで誕生し、ワイドショーで取り上げている。

あるコメンテーターは、掲載した芸能人に向かって「何がしたいのでしょうねぇ?」と言っていた。耳にした途端、「そのコメントいる?」と突っ込んでしまった。熊本に対して支援や応援をしたいからSNSに投稿しているだけではないか。バッシングを受けたSNSをいくつか拝見したが、震災関係者を誹謗中傷するようなものは一切なく、当然、あざ笑うものでもない。それぞれが、それぞれのやり方で一生懸命応援していることは否定できない事実であり、十分伝わるものであった。

しかし、そう取らない。ワイドショーにおいても、番組へのバッシングを恐れてのことなのか不明だが、バッシング側の肩を持つような印象だ。これが今の日本の実態だと思うと、嫌になる。これらすべてが、本当に、ストレス社会といわれる現代社会に漂う空気のせいなのか。そういう言い訳をしているにすぎないのではないか。せめて自分を見失わないように生きていきたい、と改めて思った…ということで、どうも、おやかまっさんどした。


《京都・嵯峨野・愛宕念仏寺》

rrbの気持ち、わかるなぁ…。何かあるとすぐに他者のせいにするシーンをたくさん見るもんね

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天を仰いで思うこと 読書が楽しい理由 2016/04/29 12:00 am

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」 誰もが知っている川端康成の『雪国』の冒頭である。『雪国』は、雪の白さに代表される純粋さからイメージされるとおり、美しい雪国の景色を背景に、男女の純粋な恋愛を描く物語とされている。

しかし…だ。物語のはじめに次のような部分がある。

「もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。」

中学生の頃に読んだときには、この部分の存在はまったく意識になかった…というより意味がわからなかったから覚えていないのかもしれない。大人になって、読み返し、この部分が何を意味しているのかがわかる。この部分に気づいたとき、思わず赤面し、同時に、自分の中から「男女の純粋な恋愛を描く物語」というイメージはなくなった。

考えてみれば、読者は、与えられたものすべてを均等に読んでいるわけではないのかもしれない。自分が読みたいものだけを、都合よく選択し、自分が読みたい物語を、自分で作っているかもしれない。このことは、同じ本を読んでも、人によってその印象や感想が違うことからもうかがえる。人にはそれぞれに、しっかり読まなければならないと思いながら読む箇所と、読み飛ばす箇所があるのだろう。これは、読者におけるストーリー重視の傾向が関わっているのかもしれない。

そんな難しい論を展開するつもりはない。要は、読書における読者心理は、読者が10人いれば10通り、100人いれば100通りあるということだ。さらに、何度も読み返すことによって、その時々に感想も異なる。だから読書は楽しいのかも…と、天を仰いで思うこと。

生々しい表現だけど、男って女の感触をそのように思い返すものなのか…と気になるね

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おやかまっさん 行動パターン 2016/04/28 12:00 am

「おいしいコーヒーが飲みたい」
「おいしい紅茶が飲みたい」
「おいしい中国茶が飲みたい」
「おいしい日本茶が飲みたい」
これらは職場で人の顔を見ながら時々発せられる言葉である。「おいしい」というのは「高級な」ということではない。「あんたのこだわりのいれかたの…」という意味だ。平たく言えば、「あんたがいれたお茶を飲みたい」なのである。職場の名誉のために説明しておくが、ハラスメント意識は一応強い。女性陣に対して「お茶〜!」というようなことは決してない。当たり前だが、誰であれすべてセルフとなっている。

それでも大きな仕事が一段落ついたときとか、誰かの誕生日とか、気が向いたときとか、マチマチだが振る舞うことがある。お茶であれ、コーヒーであれ、いれているときが頭の中が整理できる時間となっている。職場で朝に茶葉から紅茶をいれるのも、湯を沸かしている時間、茶器を温めている時間、抽出している時間の合計約15分間にその日の仕事の段取りを頭の中でするためである。この段取りをしくじるとその日はボロボロになる。

話がそれたが、先日、久々に中国茶をいれた。誰かが土産にもらってきたという品物だ。急須で抽出して飲んでいるのを横目で見ていたが、我慢できなくなり中国茶の茶器を使い丁寧にいれてあげた。「同じお茶やのに味が違う!」と言われたが、「当たり前やん。誰がいれたと思てんねん」と心の中でつぶやいておいた。こういうとき、自分は味見程度しかしない。あるとき「何で飲まへんの?」と聞かれたことがある。その時は答えられなかったけど、よくよく考えたら「いれてあげよ」っと思ったからであって、自分が飲みたいわけでもないからだ。それでも楽しいのは、献身的な性格…というわけではない。中国茶用の茶器にさわったからだ。

日本茶、紅茶、中国茶、コーヒー…当然、飲むけれど、一番は茶器が好きで、それでいれるのが好きなのである。それに、いれている時間が程よく考えを整理できるものとなっているからだ。自分にとって、「お茶、いれてあげよか。何がいい?」は、頭の中がくちゃくちゃでちょっと整理したいねん合図のようだ。これが自分の行動パターンのひとつである…ということで、どうも、おやかまっさんどした。


《京都・嵯峨野・愛宕念仏寺》

確かに行き詰ったりしてるときほどお茶とかをいれてるよね

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おやかまっさん 不謹慎狩り 2016/04/27 12:00 am

「不謹慎狩り」という新しい言葉が誕生した。芸能人の熊本地震に向けたSNSの内容をバッシングするものだ。

芸能人の多くは文筆家ではない。確かに誤解を招く箇所もあるが、字面をストレートに受け取る必要もない。重要なのは、そこに存在している「心」を理解することであろう。彼・彼女たちの真意は不明だが、「心配している」「なんとか支援をしたい」「力になりたい」「励ましたい」という表明は事実である。それで十分だろう。

インターネット上にどんな文章であったとしても、自らの意思と手で「掲載する」ということはそれなりの覚悟が必要だ。バッシングされたからとコメントなりを削除する行為は正しいだろうかと疑問をもつ。掲載した内容が特定の人物を示しており、その人物から削除要求があるのであれば削除も理解できる。しかし、バッシング者はその特定の人物ではない。ひとつの意見として、これまた文筆家ではない文で投稿しているだけである。

にもかかわらず、「削除する」ということは、バッシングの内容を「認めた」ということにつながる。たとえば「売名行為」と書かれたならば、それを認めたことになる。そうでないとするならば、意見を交わすべきである。たとえば、「私がどのような行動をとれば売名行為ではないと認識しますか?」と聞くのもひとつの方法だ。日本には、否定も肯定もしないという変なところがある。さらに否定も肯定もしないということは肯定したと判断されてしまうところもある。削除という行為は肯定も否定もしない行為であり、肯定したととられてもしかたがない。否定するならば、きちんと意思表示をすべきである。

震災という特別な場合でなくても、世界には援助を必要としている人々がいる。芸能人などのSNSについては、たとえば、閲覧カウント1ポイントを1円として支援金として寄付する仕組みなどを日常から組み込むのはどうだろうか。バッシング投稿も支援金になるし、賛同投稿も支援金となる。事が発生してからではなく、常日頃から取り組んでおけば、想定もしない炎上が発生する可能性は否定できないが、余計な炎上がなくなるのではないかと推測する。

いずれにしても、自分にできることを自分なりに整理し、信念をもって取り組むことを心がけたい。「不謹慎狩り」という新語の登場に、改めてそう思った…ということで、どうも、おやかまっさんどした。


《京都・嵯峨野・愛宕念仏寺》

バッシング…真意は不明だが…見ていて気持ちのいいものではないよね

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