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今京都 はったいのこ 2009/07/09 12:00 am
はったいのこ
麦こがし。大麦を炒って粉にしたもの。「ハッタイノコ、要りまへんか」と売りにきた。昭和初期の子どものおやつで、砂糖を加えて食べる。江戸時代の辞書『物類称呼(ぶつるいしょうこ)』には「東国にて、こがし、又みづのこといふ。畿内及西国にて、はったいと云ふ」とある。ハッタイコ・ハッタイともいう。菱の実も戦前はおやつになった。鋭い角形の突起をもつ菱を蒸し、割って種子を食べた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
水路閣 (旧フォトヴィレッジ 2007年3月7〜9日掲載)
憧れの水路閣。掲示板には、
史跡琵琶湖疎水のうち「水路閣」 疎水事業は、京都府知事北垣国道の発意により、田辺朔郎工学博士を工事担当者として、明治18年起工され、同23年に竣工した。
水路閣は、この疎水事業の一環として、施工された水路橋で、延長93.17メートル、幅4.06メートル、水路幅2.42メートル、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持ち、京都を代表する景観の一つとなっている。
また、ここから西500メートルにあるインクラインは、高低差のある蹴上げの舟だまりと南禅寺の舟だまりを結ぶ傾斜地に上下2本のレールを敷き、艇架台により舟を運ぶ施設で、冬至の舟運による交通事情がよくうかがえる。
いずれも、西欧技術が導入されて間もない当時、日本人のみの手で設計、施工されたもので、土木技術史上、極めて貴重なものであり、昭和58年7月1日に「疎水運河のうち水路閣及びインクライン」として京都市指定史跡に指定された。
また、平成8年6月には、この水路閣、インクラインに加え、第1疎水の第1・第2・第3隧道の各出入り口、第1竪坑、第2竪坑、明治36年に架設された日本初の鉄筋コンクリート橋(日ノ岡第11号橋)、同37年架設の山ノ谷橋などが日本を代表する近代化遺跡として国の史跡に指定された。
と記載されている。


疏水は、琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路。疏水の目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業、潅漑用水、防火用水などである。水路閣は琵琶湖疎水という、琵琶湖と京都の間に立ちはだかる山々をぶちぬいて流れる長大な運河にしつらえられた水道橋である。

物語は明治14年にさかのぼる。その当時、京都の水脈はもっぱら地下水か、北方の山々に流れを発する川しかなかった。しかし、いずれも急流でもなければ豊富な水量でもなかった。山をいくつか越えれば、日本最大の湖・琵琶湖がそににある。そこで考えられたのは、琵琶湖の水を京都へ引こうというもの。いくつもの山をぶち抜いて長大な水路を造ろうというものだった。それは滋賀県大津市三井寺の近くから長等山にトンネルをぶち抜いて水路を確保し、山科盆地の山々を同じように幾つものトンネルをうがち、さらに日ノ岡山のトンネル…とまるで現在の新幹線の開通工事のように、いやそれ以上に掘って掘って掘りまくるものだった。その中でも長等山の第一トンネルは2,436mと当時類をみない長大トンネルである。この琵琶湖疎水工事は設計も工事も全て日本人の手による初の大事業でもあった。琵琶湖の水を京都へ! 考えを実現させた技術と根性には驚くばかりである。さて、肝心の水路はどこに!?


水路閣の上に登ってみた。あった、あった、水路があった。水路橋の上には入れないが、疎水に沿って歩くことができる。ここは山腹に造られている。水が勢いよく流れている。ここが水路閣への水導入の水門。水の勢いと音が結構スゴイ。その水量は毎秒2トンということだからたまげる。

あいにく水路閣以外の疎水を追っかけて観ることはなかなか難しい。ほとんどは険しい山の中を貫いているし、一般人が見物できる場所も限られた区域だけ。しかし、その水門やトンネルの出入り口は水路閣同様に凝りに凝った様式デザインのもので、あっさりしているが力強い中に美しさを秘めたものと様々で、いずれもひとつとして手抜きのないものばかりだと伝え聞く。水路閣という名前にも「浪漫」というか、熱い情熱で眼をキラキラさせながら世紀の大土木事業を成し遂げた青年の誇らしげな笑顔が浮かぶような気がする。

琵琶湖疎水は、はじめに掘られた大津市三保ヶ崎から京都市東山区蹴上までの水路を「第一疏水」、次いで掘られた先の水路にほぼ沿う全線暗渠のものを「第二疏水」、南禅寺境内を横切り哲学の道に沿って流れ高野川・賀茂川を横切って堀川に至るものを「疏水分線」、蹴上から出たあと南禅寺船溜を経て平安神宮の前を流れるものを「鴨東運河」、その水路が夷川ダムを過ぎて一部鴨川に流出しその後鴨川左岸沿いに一部は暗渠となって南下し伏見に至るものを「鴨川運河」と称している。これら全てが琵琶湖疎水。この水路閣は疎水分線の一角。

疎水の殆どが自然放流(水は高いところから低いところへ流れる)の原理を利用して導かれている。簡単に言えば琵琶湖から高低さを利用して水を京都に流しているということ。もっと簡単に言えば、緩やかな勾配をとりつつ目標地点まで自然と流れる川を造ったということ。この南禅寺の水路閣はこの地点までの山腹と次の山腹への谷間を渡す橋、つまり勾配を守り谷間を渡るための橋と考えれば高架となっているのも理解できる。1890(明治23)年にこの琵琶湖疎水が完成した結果、日本初の水力発電所ができ、東京よりも先に街灯にアーク灯が点り、さらに1895(明治28)年には日本初の電車である京都市電が開通することとなる。そのとき京都は1100年の古都であると同時に最先端のハイテク都市でもあったというわけだ。とはいうものの建設当時、純和風で古式ゆかしい南禅寺の境内にいきなりハイテクで外国的な建造物が現れたのだから、保守的な人はもとよりそうでない人もさぞやぶったまげたことだろう。

調べによると反対運動らしきものもあったとかというけれど、今と違って政府の力が絶対的な明治の世の中。ある程度は有無を言わせず断行したのかも知れない、「おかみの命であるぞ!」と取り締まっているお髭姿が目に浮かぶ。それにしても驚く。「何が!?」って? 写真からも感じとれるように、すっかりと風景に溶け込んでいること。まるで「100年後のレンガの醸し出す雰囲気まで計算していたのではないか」と思えるということ。つまり、今の時代ですっかりとモダン建築として馴染んでいるということに。

さらに、ここを訪れる人やここで生活している人など誰に尋ねても南禅寺の境内でなくてはならない存在となっているのは間違いない。もしかしたら田辺朔郎はそんなところまで計算していたのではないか!? と考えてしまった。もしそうならば、まさに天才だ。そんな勝手な想像はともかく、緑に包まれた水路閣の水路は毎秒2トンの水がいまだに絶えることなく流れ、京都市民の生活を支えていることは紛れもない事実。水に困らない生活ができているのもこの疎水のおかげ。100年以上も前に生活のことを考え5年の歳月をかけて成し遂げた一大事業が、現在でも生き続け、京都市民の生活を支えている。この恩恵に感謝して、一滴たりの水も粗末にしない意識をもって生活したい。憧れの水路閣、満足いくまで掲載できた…今京都。

麦こがし。大麦を炒って粉にしたもの。「ハッタイノコ、要りまへんか」と売りにきた。昭和初期の子どものおやつで、砂糖を加えて食べる。江戸時代の辞書『物類称呼(ぶつるいしょうこ)』には「東国にて、こがし、又みづのこといふ。畿内及西国にて、はったいと云ふ」とある。ハッタイコ・ハッタイともいう。菱の実も戦前はおやつになった。鋭い角形の突起をもつ菱を蒸し、割って種子を食べた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
水路閣 (旧フォトヴィレッジ 2007年3月7〜9日掲載)
憧れの水路閣。掲示板には、
水路閣は、この疎水事業の一環として、施工された水路橋で、延長93.17メートル、幅4.06メートル、水路幅2.42メートル、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持ち、京都を代表する景観の一つとなっている。
また、ここから西500メートルにあるインクラインは、高低差のある蹴上げの舟だまりと南禅寺の舟だまりを結ぶ傾斜地に上下2本のレールを敷き、艇架台により舟を運ぶ施設で、冬至の舟運による交通事情がよくうかがえる。
いずれも、西欧技術が導入されて間もない当時、日本人のみの手で設計、施工されたもので、土木技術史上、極めて貴重なものであり、昭和58年7月1日に「疎水運河のうち水路閣及びインクライン」として京都市指定史跡に指定された。
また、平成8年6月には、この水路閣、インクラインに加え、第1疎水の第1・第2・第3隧道の各出入り口、第1竪坑、第2竪坑、明治36年に架設された日本初の鉄筋コンクリート橋(日ノ岡第11号橋)、同37年架設の山ノ谷橋などが日本を代表する近代化遺跡として国の史跡に指定された。
と記載されている。


疏水は、琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路。疏水の目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業、潅漑用水、防火用水などである。水路閣は琵琶湖疎水という、琵琶湖と京都の間に立ちはだかる山々をぶちぬいて流れる長大な運河にしつらえられた水道橋である。

物語は明治14年にさかのぼる。その当時、京都の水脈はもっぱら地下水か、北方の山々に流れを発する川しかなかった。しかし、いずれも急流でもなければ豊富な水量でもなかった。山をいくつか越えれば、日本最大の湖・琵琶湖がそににある。そこで考えられたのは、琵琶湖の水を京都へ引こうというもの。いくつもの山をぶち抜いて長大な水路を造ろうというものだった。それは滋賀県大津市三井寺の近くから長等山にトンネルをぶち抜いて水路を確保し、山科盆地の山々を同じように幾つものトンネルをうがち、さらに日ノ岡山のトンネル…とまるで現在の新幹線の開通工事のように、いやそれ以上に掘って掘って掘りまくるものだった。その中でも長等山の第一トンネルは2,436mと当時類をみない長大トンネルである。この琵琶湖疎水工事は設計も工事も全て日本人の手による初の大事業でもあった。琵琶湖の水を京都へ! 考えを実現させた技術と根性には驚くばかりである。さて、肝心の水路はどこに!?


水路閣の上に登ってみた。あった、あった、水路があった。水路橋の上には入れないが、疎水に沿って歩くことができる。ここは山腹に造られている。水が勢いよく流れている。ここが水路閣への水導入の水門。水の勢いと音が結構スゴイ。その水量は毎秒2トンということだからたまげる。

あいにく水路閣以外の疎水を追っかけて観ることはなかなか難しい。ほとんどは険しい山の中を貫いているし、一般人が見物できる場所も限られた区域だけ。しかし、その水門やトンネルの出入り口は水路閣同様に凝りに凝った様式デザインのもので、あっさりしているが力強い中に美しさを秘めたものと様々で、いずれもひとつとして手抜きのないものばかりだと伝え聞く。水路閣という名前にも「浪漫」というか、熱い情熱で眼をキラキラさせながら世紀の大土木事業を成し遂げた青年の誇らしげな笑顔が浮かぶような気がする。

琵琶湖疎水は、はじめに掘られた大津市三保ヶ崎から京都市東山区蹴上までの水路を「第一疏水」、次いで掘られた先の水路にほぼ沿う全線暗渠のものを「第二疏水」、南禅寺境内を横切り哲学の道に沿って流れ高野川・賀茂川を横切って堀川に至るものを「疏水分線」、蹴上から出たあと南禅寺船溜を経て平安神宮の前を流れるものを「鴨東運河」、その水路が夷川ダムを過ぎて一部鴨川に流出しその後鴨川左岸沿いに一部は暗渠となって南下し伏見に至るものを「鴨川運河」と称している。これら全てが琵琶湖疎水。この水路閣は疎水分線の一角。

疎水の殆どが自然放流(水は高いところから低いところへ流れる)の原理を利用して導かれている。簡単に言えば琵琶湖から高低さを利用して水を京都に流しているということ。もっと簡単に言えば、緩やかな勾配をとりつつ目標地点まで自然と流れる川を造ったということ。この南禅寺の水路閣はこの地点までの山腹と次の山腹への谷間を渡す橋、つまり勾配を守り谷間を渡るための橋と考えれば高架となっているのも理解できる。1890(明治23)年にこの琵琶湖疎水が完成した結果、日本初の水力発電所ができ、東京よりも先に街灯にアーク灯が点り、さらに1895(明治28)年には日本初の電車である京都市電が開通することとなる。そのとき京都は1100年の古都であると同時に最先端のハイテク都市でもあったというわけだ。とはいうものの建設当時、純和風で古式ゆかしい南禅寺の境内にいきなりハイテクで外国的な建造物が現れたのだから、保守的な人はもとよりそうでない人もさぞやぶったまげたことだろう。

調べによると反対運動らしきものもあったとかというけれど、今と違って政府の力が絶対的な明治の世の中。ある程度は有無を言わせず断行したのかも知れない、「おかみの命であるぞ!」と取り締まっているお髭姿が目に浮かぶ。それにしても驚く。「何が!?」って? 写真からも感じとれるように、すっかりと風景に溶け込んでいること。まるで「100年後のレンガの醸し出す雰囲気まで計算していたのではないか」と思えるということ。つまり、今の時代ですっかりとモダン建築として馴染んでいるということに。

さらに、ここを訪れる人やここで生活している人など誰に尋ねても南禅寺の境内でなくてはならない存在となっているのは間違いない。もしかしたら田辺朔郎はそんなところまで計算していたのではないか!? と考えてしまった。もしそうならば、まさに天才だ。そんな勝手な想像はともかく、緑に包まれた水路閣の水路は毎秒2トンの水がいまだに絶えることなく流れ、京都市民の生活を支えていることは紛れもない事実。水に困らない生活ができているのもこの疎水のおかげ。100年以上も前に生活のことを考え5年の歳月をかけて成し遂げた一大事業が、現在でも生き続け、京都市民の生活を支えている。この恩恵に感謝して、一滴たりの水も粗末にしない意識をもって生活したい。憧れの水路閣、満足いくまで掲載できた…今京都。


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天を仰いで思うこと おくない 2009/07/08 12:00 am
おくない
おくれ、くださいの意。「おかあさん、そこのハサミ取ってオクナイ」「きれいな色紙欲しいな、オクナイナ」 オイナイはオイナハイ(おいでなされ)から変わった。18世紀前半に花街で使った。ミトイナハイ(見ていらっしゃい)はミトイナイに、オクナハイはオクナイとなった。「ぎょうさんオクナハレ」は東京では「どっさりください」 オクナイは、子どもがねだるときにいい、甘い感じがする。関連はおくれやす。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
四方山話(63)
誰でもよかったから思うこと

随分以前に、茨城県土浦市の8人殺傷事件後、面識のない人が突然襲われる「通り魔」的な凶行事件が全国で続発しているという掲載をした。

その時の記事は、逮捕された犯人に共通しているのは、「誰でもよかった」という無差別殺人をほのめかす動機。8人殺傷事件で逮捕された犯人は警察の取り調べに「人を殺したかった」と供述している。事前に凶器を購入するなど計画的な犯行だが、逮捕前には「早く捕まえてごらん」と2度にわたり警察を挑発しており、ゲーム感覚で人を襲った異常な言動も明らかになっている。この事件後、千葉や愛知、福岡県でも通行人らが見知らぬ人に刃物で刺されるなど、通り魔事件が続発。岡山の事件で逮捕された少年も「人を殺せば刑務所に行ける」と供述、同じように「誰でもよかった」と無差別殺人をうかがわせる動機を話しているから恐い。一連の事件を専門家たちは、社会が閉塞状態だと不満を爆発させるような事件が起きる。少年など社会の弱者がストレスに一番反応しやすく、茨城県土浦市の8人殺傷事件に触発された可能性もある。テレビゲームや映画などで人を簡単に殺すシーンに日常的に接しており、殺人への罪の意識が希薄になっている。と指摘している。さらに、こうした殺人予備軍ともいえる人は相当数いるとみられ、凶悪事件が起きればせきを切ったように表に出てくる。つまり連鎖的に犯行が続くことが懸念されるということだ。個人的な恨みとは違い、通り魔事件は繰り返される傾向があり、過去にも多くの同種事件が起きている。若い人の自我が確立していないことが背景にあり、こうした事件は日常生活で多くのストレスを抱える現代社会を反映しているともいわれている、というものだ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
今回、大阪のパチンコ店放火の犯人も、「通り魔みたいに人を殺したかった」と供述している。4人が死亡、19人が重軽傷を負った大阪のパチンコ店の放火殺人事件。「誰でもいいと思ってやった」と供述したというが、犠牲者の家族はいたたまれない。少し前の秋葉原の無差別殺傷事件もそうだが、世の中が病んでいるのか、人間が本来の常識を失ってしまったのか。よいことはよい、悪いことは悪いと公正に物事を判断する能力は失いたくない…と、天を仰いで思うこと。

おくれ、くださいの意。「おかあさん、そこのハサミ取ってオクナイ」「きれいな色紙欲しいな、オクナイナ」 オイナイはオイナハイ(おいでなされ)から変わった。18世紀前半に花街で使った。ミトイナハイ(見ていらっしゃい)はミトイナイに、オクナハイはオクナイとなった。「ぎょうさんオクナハレ」は東京では「どっさりください」 オクナイは、子どもがねだるときにいい、甘い感じがする。関連はおくれやす。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(63)
誰でもよかったから思うこと

随分以前に、茨城県土浦市の8人殺傷事件後、面識のない人が突然襲われる「通り魔」的な凶行事件が全国で続発しているという掲載をした。

その時の記事は、逮捕された犯人に共通しているのは、「誰でもよかった」という無差別殺人をほのめかす動機。8人殺傷事件で逮捕された犯人は警察の取り調べに「人を殺したかった」と供述している。事前に凶器を購入するなど計画的な犯行だが、逮捕前には「早く捕まえてごらん」と2度にわたり警察を挑発しており、ゲーム感覚で人を襲った異常な言動も明らかになっている。この事件後、千葉や愛知、福岡県でも通行人らが見知らぬ人に刃物で刺されるなど、通り魔事件が続発。岡山の事件で逮捕された少年も「人を殺せば刑務所に行ける」と供述、同じように「誰でもよかった」と無差別殺人をうかがわせる動機を話しているから恐い。一連の事件を専門家たちは、社会が閉塞状態だと不満を爆発させるような事件が起きる。少年など社会の弱者がストレスに一番反応しやすく、茨城県土浦市の8人殺傷事件に触発された可能性もある。テレビゲームや映画などで人を簡単に殺すシーンに日常的に接しており、殺人への罪の意識が希薄になっている。と指摘している。さらに、こうした殺人予備軍ともいえる人は相当数いるとみられ、凶悪事件が起きればせきを切ったように表に出てくる。つまり連鎖的に犯行が続くことが懸念されるということだ。個人的な恨みとは違い、通り魔事件は繰り返される傾向があり、過去にも多くの同種事件が起きている。若い人の自我が確立していないことが背景にあり、こうした事件は日常生活で多くのストレスを抱える現代社会を反映しているともいわれている、というものだ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
今回、大阪のパチンコ店放火の犯人も、「通り魔みたいに人を殺したかった」と供述している。4人が死亡、19人が重軽傷を負った大阪のパチンコ店の放火殺人事件。「誰でもいいと思ってやった」と供述したというが、犠牲者の家族はいたたまれない。少し前の秋葉原の無差別殺傷事件もそうだが、世の中が病んでいるのか、人間が本来の常識を失ってしまったのか。よいことはよい、悪いことは悪いと公正に物事を判断する能力は失いたくない…と、天を仰いで思うこと。


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今京都 みとーみ 2009/07/07 12:00 am
みとーみ
見なさい。「あんたこれミトーミ」「それミテミー」は、それ見たことかの気持ちでいう。ミトミとも。丁寧に「ミトーミやす」「見てオミ」の変化したもの。オミは「見よ」に「お」を付けた敬称。シトーミ(してみなさい)、ユートーミ(言ってみなさい)は、「してオミ」「言うてオミ」から。読んドーミ、かぞえトーミのような構成もある。「言うてミテミ」「聞いてミテミ」などはミテミが加わる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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出町柳(でまちやなぎ) (旧フォトヴィレッジ 2007年7月3・4日掲載)
「出町柳」とはなんとも郷愁を誘う響き。高野川と賀茂川が合流するすぐそばに叡山電車(略して叡電)「出町柳」駅がある。京都人にとって「出町」の名前は出町商店街とかでも馴染みがある。しかし「出町」という呼び名は随分と広範囲で使用されている。叡電の「出町柳」駅周辺も「出町」なら、寺町今出川も「出町」。この間、歩けば5分はかかる距離。京都人は間違っても「出町で待ち合わせ」などとはいわない。今回はこの「出町柳」のお話。

そもそも「出町」とは、頭に、いぶした薪の黒木(くろき)や芝を載せて都で売り歩く大原女(おはらめ)が、大原の里から若狭街道を下ってきて、初めて出くわした町というのが由来だそうだ。豊臣秀吉が御土居(おどい)を築いたその出入り口である七口の大原口、今出川口と呼ばれた地点に新しく形成された新地ゾーンが「出町」と呼ばれるようになったらしい。寺町今出川の東北角に、いまでも大きな石の道標が立っている。


ここが大原口の四つの角にあたり、昔から「大原の辻」と呼ばれてきた。だから「出町」とは、このあたりから賀茂川・高野川を渡る橋の一帯をこう呼んでいたと考えられる。ちなみに若狭街道や白川街道へ出て行くこの橋は、今は賀茂川にかかる出町橋、高野川にかかる河合橋と二本に別れているが、古くは長い一本の「出町橋」だった。

「出町橋」のそばには「鯖街道口」の石碑も立てられている。現在、南側にある賀茂大橋は、市電開通にともない、のちに架けられた橋。したがって、この「出町橋」こそが都と郊外の架け橋であったといえる。しかし「出町」の呼称がこれだけ馴染み深く、広範囲に使われているにもかかわらず「出町柳」と呼ぶのは駅だけなのである。柳は確かに植えられているのであるが…。大正末期まで、いまの出町柳駅前に大きな柳の木が立っており、寺町今出川の「大原の辻」に対して、出町橋東詰の街道分岐点は「柳の辻」と呼ばれていた。そして駅前のお寺、長徳寺は「柳の寺」とも呼ばれている。その昔、現在の駅の場所には「柳茶屋」という茶店もあったらしい。

「出町柳」駅の誕生は1925(大正14)年。京都電灯(現・関西電力)鉄道部が八瀬まで初めて電車を走らせ、叡山にケーブルカー、ロープウェイをつけた。待望の発着駅の誕生に際して、賀茂川・高野川をはさんだ川向こうの「出町」と、こちらがわの「柳の辻」の地名を合体させて「出町柳」駅と名づけたということだ。その後、「柳の辻」という呼び名は聞かれず、そのために駅名の由来を知る人はほとんどいなくなったとのこと。

「出町柳」駅。比叡山参拝はそれまで健脚でも1日がかりだったのが、市内から頂上までわずか40分で結ばれるようになった。そして、今では京阪電車が乗り入れして京阪グループとなり、にぎやかなイラスト入りの車体の電車が走ったりしている…今京都。

見なさい。「あんたこれミトーミ」「それミテミー」は、それ見たことかの気持ちでいう。ミトミとも。丁寧に「ミトーミやす」「見てオミ」の変化したもの。オミは「見よ」に「お」を付けた敬称。シトーミ(してみなさい)、ユートーミ(言ってみなさい)は、「してオミ」「言うてオミ」から。読んドーミ、かぞえトーミのような構成もある。「言うてミテミ」「聞いてミテミ」などはミテミが加わる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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出町柳(でまちやなぎ) (旧フォトヴィレッジ 2007年7月3・4日掲載)
「出町柳」とはなんとも郷愁を誘う響き。高野川と賀茂川が合流するすぐそばに叡山電車(略して叡電)「出町柳」駅がある。京都人にとって「出町」の名前は出町商店街とかでも馴染みがある。しかし「出町」という呼び名は随分と広範囲で使用されている。叡電の「出町柳」駅周辺も「出町」なら、寺町今出川も「出町」。この間、歩けば5分はかかる距離。京都人は間違っても「出町で待ち合わせ」などとはいわない。今回はこの「出町柳」のお話。

そもそも「出町」とは、頭に、いぶした薪の黒木(くろき)や芝を載せて都で売り歩く大原女(おはらめ)が、大原の里から若狭街道を下ってきて、初めて出くわした町というのが由来だそうだ。豊臣秀吉が御土居(おどい)を築いたその出入り口である七口の大原口、今出川口と呼ばれた地点に新しく形成された新地ゾーンが「出町」と呼ばれるようになったらしい。寺町今出川の東北角に、いまでも大きな石の道標が立っている。


ここが大原口の四つの角にあたり、昔から「大原の辻」と呼ばれてきた。だから「出町」とは、このあたりから賀茂川・高野川を渡る橋の一帯をこう呼んでいたと考えられる。ちなみに若狭街道や白川街道へ出て行くこの橋は、今は賀茂川にかかる出町橋、高野川にかかる河合橋と二本に別れているが、古くは長い一本の「出町橋」だった。

「出町橋」のそばには「鯖街道口」の石碑も立てられている。現在、南側にある賀茂大橋は、市電開通にともない、のちに架けられた橋。したがって、この「出町橋」こそが都と郊外の架け橋であったといえる。しかし「出町」の呼称がこれだけ馴染み深く、広範囲に使われているにもかかわらず「出町柳」と呼ぶのは駅だけなのである。柳は確かに植えられているのであるが…。大正末期まで、いまの出町柳駅前に大きな柳の木が立っており、寺町今出川の「大原の辻」に対して、出町橋東詰の街道分岐点は「柳の辻」と呼ばれていた。そして駅前のお寺、長徳寺は「柳の寺」とも呼ばれている。その昔、現在の駅の場所には「柳茶屋」という茶店もあったらしい。

「出町柳」駅の誕生は1925(大正14)年。京都電灯(現・関西電力)鉄道部が八瀬まで初めて電車を走らせ、叡山にケーブルカー、ロープウェイをつけた。待望の発着駅の誕生に際して、賀茂川・高野川をはさんだ川向こうの「出町」と、こちらがわの「柳の辻」の地名を合体させて「出町柳」駅と名づけたということだ。その後、「柳の辻」という呼び名は聞かれず、そのために駅名の由来を知る人はほとんどいなくなったとのこと。

「出町柳」駅。比叡山参拝はそれまで健脚でも1日がかりだったのが、市内から頂上までわずか40分で結ばれるようになった。そして、今では京阪電車が乗り入れして京阪グループとなり、にぎやかなイラスト入りの車体の電車が走ったりしている…今京都。


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天を仰いで思うこと おぶー 2009/07/06 12:00 am
おぶー
お茶。ブブともいう。ブブは、熱い湯茶を吹くときの擬声語に基づく。祇園花街では「お茶を挽く」とは仕事がないことなので、「お茶」の語を嫌って、ブブとかオブーという。お茶漬けはブブヅケ・オブヅケ。「しばづけでブブヅケにおしやすか」「なんにもおへんけどブブヅケでも食べていっとくれやす」という「京のお茶漬け」は、実際には振る舞うつもりはない。口先だけの世辞のよいのをそしることば。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(62)
ステキなシーンに思うこと

電車の乗車マナーの悪さにしばしば閉口することがある。痴漢行為もさることながら、携帯電話の迷惑使用やヘッドホンからの音漏れ、駆け込み乗車。所かまわず座り込む高校生。挙句の果ては、深夜の車内では酔客が目につく。

ほろ酔い機嫌も度が過ぎれば傍若無人の振る舞いとなる。ここまで酔いつぶれなくてもと内心あきれつつ、床にぐったりと座り込んだ年配男性の様子をうかがっていると、どうも変。傍らの乗客が異変に気づき非常ボタンで乗務員に知らせる。最寄り駅で急停車すると、乗り合わせた乗客の一人が自分の上着を掛けて救護を率先した。どうも救急救命士らしい。駅員らに「救急車の手配を」「AED(自動体外式除細動器)を用意して」とてきぱきと指示する。その行動につられるように周りの乗客らも担架での搬出を手伝い始めた。家路を急ぐ乗客が多いはずだが、大幅に遅れた運行再開にも不満の声は聞かれなかった。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
その数日後の出来事。朝のラッシュを過ぎても車内は混雑していた。盲導犬同伴の女性が慌てて席を立とうとする。降車駅が近づき、不安になったのだろう。居合わせた男性が「停車してからでいいですよ。ゆっくり降りられるように誘導します。ご安心を」。さりげない行動や言葉に、優しさや思いやりがきらりと光る。こんな場面に出合うと、乗車マナーの悪さへの腹立ちも雲散霧消。慌ただしい日常生活にしばし心洗われた、という話を聞いた。こんなシーンに出くわしてもちゃんと振る舞えるだろうか、と話を聞きながら考えた。こういう行動ができるおとなになりたい…と、天を仰いで思うこと。

お茶。ブブともいう。ブブは、熱い湯茶を吹くときの擬声語に基づく。祇園花街では「お茶を挽く」とは仕事がないことなので、「お茶」の語を嫌って、ブブとかオブーという。お茶漬けはブブヅケ・オブヅケ。「しばづけでブブヅケにおしやすか」「なんにもおへんけどブブヅケでも食べていっとくれやす」という「京のお茶漬け」は、実際には振る舞うつもりはない。口先だけの世辞のよいのをそしることば。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
四方山話(62)
ステキなシーンに思うこと

電車の乗車マナーの悪さにしばしば閉口することがある。痴漢行為もさることながら、携帯電話の迷惑使用やヘッドホンからの音漏れ、駆け込み乗車。所かまわず座り込む高校生。挙句の果ては、深夜の車内では酔客が目につく。

ほろ酔い機嫌も度が過ぎれば傍若無人の振る舞いとなる。ここまで酔いつぶれなくてもと内心あきれつつ、床にぐったりと座り込んだ年配男性の様子をうかがっていると、どうも変。傍らの乗客が異変に気づき非常ボタンで乗務員に知らせる。最寄り駅で急停車すると、乗り合わせた乗客の一人が自分の上着を掛けて救護を率先した。どうも救急救命士らしい。駅員らに「救急車の手配を」「AED(自動体外式除細動器)を用意して」とてきぱきと指示する。その行動につられるように周りの乗客らも担架での搬出を手伝い始めた。家路を急ぐ乗客が多いはずだが、大幅に遅れた運行再開にも不満の声は聞かれなかった。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
その数日後の出来事。朝のラッシュを過ぎても車内は混雑していた。盲導犬同伴の女性が慌てて席を立とうとする。降車駅が近づき、不安になったのだろう。居合わせた男性が「停車してからでいいですよ。ゆっくり降りられるように誘導します。ご安心を」。さりげない行動や言葉に、優しさや思いやりがきらりと光る。こんな場面に出合うと、乗車マナーの悪さへの腹立ちも雲散霧消。慌ただしい日常生活にしばし心洗われた、という話を聞いた。こんなシーンに出くわしてもちゃんと振る舞えるだろうか、と話を聞きながら考えた。こういう行動ができるおとなになりたい…と、天を仰いで思うこと。


このエントリーの情報
今京都 なんぎやなあ 2009/07/05 12:00 am
なんぎやなあ
困ったね。「ナンギヤナアまだこの仕事やってくれてへんのか」ナンギは難儀。幕末ごろから多用し始めた。よわったなあという気持ちを表し、「仕方がない」というあきらめの表現でもある。「ナンギなこっちゃなあ」とも言う。「もう銀行しまってしもたんか、お金おろせへんわ。ナンギなこっちゃなあ」 難儀はもと、難しいこと、苦しみ悩むこと、面倒で困難なことのような意味で用いた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢



地蔵物語(266)


困ったね。「ナンギヤナアまだこの仕事やってくれてへんのか」ナンギは難儀。幕末ごろから多用し始めた。よわったなあという気持ちを表し、「仕方がない」というあきらめの表現でもある。「ナンギなこっちゃなあ」とも言う。「もう銀行しまってしもたんか、お金おろせへんわ。ナンギなこっちゃなあ」 難儀はもと、難しいこと、苦しみ悩むこと、面倒で困難なことのような意味で用いた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢



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