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今京都 おいえ 2009/07/14 12:00 am
おいえ
座敷。「オイエ上がって遊んでばっかりいんと、外(かど)で遊んどいで」 オイエは「お上(うえ)」ということからで、使用人が言い始めた。この場合のイエは家の意味ではない。町家の家庭の主婦を大阪でオイエサンというのも「お上様(うえさま)」からで、東京のオカミサンと同種の命名法。座敷は昔は板張りで、しとね・円座などを敷いて座った。座を敷くから座敷であった。畳はもと敷物の総称でたたむことができた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
五山送り火 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月21日掲載)
京都の夏の風物詩といえば、今週の17日に山鉾巡行が行われる祇園祭と8月16日に行われる五山の送り火。大文字の送り火を「大文字焼き」という人がいるが、京都人は「焼き」とは決して言わない、送り火。

この五山の送り火は、京都盆地と周囲の山々をひとつの舞台に見立てた壮大な炎のページェント。東に「大文字」、北に「妙法」「船形」、西に「左大文字」「鳥居形」と五つの火文字。このとてつもない演出法を、いったい誰が思いついたのか…この歴史都市京都においても、いつから始まったのか、どのようにして始まったのかが実は不明というから面白い。

この五山送り火を調べてみると、かつては市原に「い」、鳴滝に「一」、北嵯峨に「蛇蛇」、西山に「竹の先に鈴」、観空寺(かっこうじ)村に「長刀(なぎなた)」などと、さまざまな送り火があったということが判明。「い」「一」は明治に入って姿を消し、「竹に鈴」あるいは「竿に鈴」は大正初期にはまだあったという。こうして今に至り残っているのが五山というわけ。

送り火は精霊送りの意味をもつお盆行事のひとつ。お盆の行事が一般に広く行なわれるようになったのは、仏教が庶民の間に浸透した中世、室町時代以降だろうとされている。送り火のことが記録に初めて登場するのは、公家・舟橋秀賢(ふなはしひでかた)がきした「慶長日件録」という日記の1603(慶長8)年7月16日の記述。「晩に及び冷泉亭に行く、山々灯を焼く、見物に東河原に出でおわんぬ」というのが、鴨の河原からの送り火見物のようで、ここには「万灯籠見物」とも書かれている。戦国時代の京都には、大灯籠を作る風習があった。お盆には、意匠を凝らしたたくさんの灯籠を飾る万灯籠や、それを持って踊る灯籠踊りが流行。二間四方もある大灯籠を作って人々を驚かせたり、町内ごとに大灯籠を作って趣向を競ったりもした。この万灯籠が「山々灯を焼く」送り火になったのではないかとみられている。

いずれにしても、大文字五山送り火の起源が明らかでないのは、この行事が地元の人々によって支えられ、伝えられてきた証であるという。なぜなら、歴史の中の公式記録は時の権力者が残してきたもので、庶民の歴史は記録にとどめられることはなかったからである。今年も地元の人々やボランティアの方々のおかげで行われる京都五山送り火…今京都。

座敷。「オイエ上がって遊んでばっかりいんと、外(かど)で遊んどいで」 オイエは「お上(うえ)」ということからで、使用人が言い始めた。この場合のイエは家の意味ではない。町家の家庭の主婦を大阪でオイエサンというのも「お上様(うえさま)」からで、東京のオカミサンと同種の命名法。座敷は昔は板張りで、しとね・円座などを敷いて座った。座を敷くから座敷であった。畳はもと敷物の総称でたたむことができた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
五山送り火 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月21日掲載)
京都の夏の風物詩といえば、今週の17日に山鉾巡行が行われる祇園祭と8月16日に行われる五山の送り火。大文字の送り火を「大文字焼き」という人がいるが、京都人は「焼き」とは決して言わない、送り火。

この五山の送り火は、京都盆地と周囲の山々をひとつの舞台に見立てた壮大な炎のページェント。東に「大文字」、北に「妙法」「船形」、西に「左大文字」「鳥居形」と五つの火文字。このとてつもない演出法を、いったい誰が思いついたのか…この歴史都市京都においても、いつから始まったのか、どのようにして始まったのかが実は不明というから面白い。

この五山送り火を調べてみると、かつては市原に「い」、鳴滝に「一」、北嵯峨に「蛇蛇」、西山に「竹の先に鈴」、観空寺(かっこうじ)村に「長刀(なぎなた)」などと、さまざまな送り火があったということが判明。「い」「一」は明治に入って姿を消し、「竹に鈴」あるいは「竿に鈴」は大正初期にはまだあったという。こうして今に至り残っているのが五山というわけ。

送り火は精霊送りの意味をもつお盆行事のひとつ。お盆の行事が一般に広く行なわれるようになったのは、仏教が庶民の間に浸透した中世、室町時代以降だろうとされている。送り火のことが記録に初めて登場するのは、公家・舟橋秀賢(ふなはしひでかた)がきした「慶長日件録」という日記の1603(慶長8)年7月16日の記述。「晩に及び冷泉亭に行く、山々灯を焼く、見物に東河原に出でおわんぬ」というのが、鴨の河原からの送り火見物のようで、ここには「万灯籠見物」とも書かれている。戦国時代の京都には、大灯籠を作る風習があった。お盆には、意匠を凝らしたたくさんの灯籠を飾る万灯籠や、それを持って踊る灯籠踊りが流行。二間四方もある大灯籠を作って人々を驚かせたり、町内ごとに大灯籠を作って趣向を競ったりもした。この万灯籠が「山々灯を焼く」送り火になったのではないかとみられている。

いずれにしても、大文字五山送り火の起源が明らかでないのは、この行事が地元の人々によって支えられ、伝えられてきた証であるという。なぜなら、歴史の中の公式記録は時の権力者が残してきたもので、庶民の歴史は記録にとどめられることはなかったからである。今年も地元の人々やボランティアの方々のおかげで行われる京都五山送り火…今京都。


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天を仰いで思うこと いもとのよめいり 2009/07/13 12:00 am
いもとのよめいり
イモトノヨメイリ(妹の嫁入り)とは、値段と相談すること。西陣織の職人ことば。妹の嫁入りには、姉と相談して決める習慣があるのでいう。姉をネーというから値段の値(ネー)とかけた。京都ではネをネーと長く、妹をイモトと短く言う。弟はオトトである。西陣織職人がデッチノウナギというのは「鰊(にしん)」のこと。昭和初期に丁稚は粗食に耐え、月の一日・十五日に出された鰊をウナギと思って食べたという。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(64)
砂時計に思うこと

珍しく縦画角
銭湯のサウナや、カップラーメンのお供や、ゼルダの伝説などで今でも使われている砂時計。砂時計は、約1000年前から使われていたといわれているが、そこには、現代科学をもってしても解明できていない、様々な謎が隠されているという。そんな、砂時計にまつわる謎が紹介されている本がある。タイトルはずばり、『砂時計の七不思議』(中央公論社)。著者は中央大学教授の田口善弘教授(執筆当時は東京工業大学助手)である。なんともロマンあふれるタイトルにいざなわれ、読んでみた。といっても、今では絶版で、おいてある図書館を探した。

本には、タイトルの通り、砂時計にひそむ七つの不思議が紹介されている。例えばこんなものだ。「砂時計の砂が流れ出る速さは、砂時計の上半分に残っている砂の量によらない」 これ、一見すると当たり前のように見えるが、これが水だとこうはいかない。紙パックの牛乳の底近くの側面に穴を開けたとする。最初はいきおいよく牛乳が出てくるが、最後の方はちょろちょろとしか出なくなる。これは、パックに残っている牛乳が多いほど、勢いよく出るからだ。お風呂にためた水を排水溝から流すときも同じ。砂時計の場合、このようなことは起こらず、どんなに残りの量が少なくなってきても、砂が落ちる量は一定である。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
このような現象が起きるのは、砂が、ある程度の大きさをもったつぶつぶ(粉粒体)であるからだそうだ。つぶつぶであるがゆえに、水などの液体とはまた違った性質をもっているという。このつぶつぶをよく調べると、砂時計がくびれの部分で目詰まりをしないのはどうしてか、ということもわかってくる。七不思議の一つに、「くびれ部分の直径が、砂粒の6倍よりも小さいと砂が流れなくなる」というものがあり、砂時計はそうならないよう、きちんと設計されている。本には、砂時計の七不思議にとどまらず、つぶつぶにまつわる様々な現象が紹介されている。1995年に執筆された本であるが、トピックが幅広く、今でも新鮮さが失われていない。専門的な内容もあるが、全体としては読みやすくまとまっている。砂時計、いくつか持っているが、なんとなく癒されるアイテムだ…と、天を仰いで思うこと。

おまけ

イモトノヨメイリ(妹の嫁入り)とは、値段と相談すること。西陣織の職人ことば。妹の嫁入りには、姉と相談して決める習慣があるのでいう。姉をネーというから値段の値(ネー)とかけた。京都ではネをネーと長く、妹をイモトと短く言う。弟はオトトである。西陣織職人がデッチノウナギというのは「鰊(にしん)」のこと。昭和初期に丁稚は粗食に耐え、月の一日・十五日に出された鰊をウナギと思って食べたという。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(64)
砂時計に思うこと

珍しく縦画角
銭湯のサウナや、カップラーメンのお供や、ゼルダの伝説などで今でも使われている砂時計。砂時計は、約1000年前から使われていたといわれているが、そこには、現代科学をもってしても解明できていない、様々な謎が隠されているという。そんな、砂時計にまつわる謎が紹介されている本がある。タイトルはずばり、『砂時計の七不思議』(中央公論社)。著者は中央大学教授の田口善弘教授(執筆当時は東京工業大学助手)である。なんともロマンあふれるタイトルにいざなわれ、読んでみた。といっても、今では絶版で、おいてある図書館を探した。

本には、タイトルの通り、砂時計にひそむ七つの不思議が紹介されている。例えばこんなものだ。「砂時計の砂が流れ出る速さは、砂時計の上半分に残っている砂の量によらない」 これ、一見すると当たり前のように見えるが、これが水だとこうはいかない。紙パックの牛乳の底近くの側面に穴を開けたとする。最初はいきおいよく牛乳が出てくるが、最後の方はちょろちょろとしか出なくなる。これは、パックに残っている牛乳が多いほど、勢いよく出るからだ。お風呂にためた水を排水溝から流すときも同じ。砂時計の場合、このようなことは起こらず、どんなに残りの量が少なくなってきても、砂が落ちる量は一定である。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
このような現象が起きるのは、砂が、ある程度の大きさをもったつぶつぶ(粉粒体)であるからだそうだ。つぶつぶであるがゆえに、水などの液体とはまた違った性質をもっているという。このつぶつぶをよく調べると、砂時計がくびれの部分で目詰まりをしないのはどうしてか、ということもわかってくる。七不思議の一つに、「くびれ部分の直径が、砂粒の6倍よりも小さいと砂が流れなくなる」というものがあり、砂時計はそうならないよう、きちんと設計されている。本には、砂時計の七不思議にとどまらず、つぶつぶにまつわる様々な現象が紹介されている。1995年に執筆された本であるが、トピックが幅広く、今でも新鮮さが失われていない。専門的な内容もあるが、全体としては読みやすくまとまっている。砂時計、いくつか持っているが、なんとなく癒されるアイテムだ…と、天を仰いで思うこと。

おまけ


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今京都 ねき 2009/07/12 12:00 am
ねき
そば、近くのことをいう。「もうちょっとネキに寄ってんか」「車のネキで、うろちょろすんな」「根際(ねぎわ)」という語から、ネキとなった。根際は「草木の根の近辺」ということで、室町時代のことばを集めた日本語・ポルトガル語の『日葡辞書』に記載されている。ネキとよく似たハタも、そば・端の意味で用いるが、「ハタから口を出す」とはいうが、「ネキから」とはいわない。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢



地蔵物語(268)


そば、近くのことをいう。「もうちょっとネキに寄ってんか」「車のネキで、うろちょろすんな」「根際(ねぎわ)」という語から、ネキとなった。根際は「草木の根の近辺」ということで、室町時代のことばを集めた日本語・ポルトガル語の『日葡辞書』に記載されている。ネキとよく似たハタも、そば・端の意味で用いるが、「ハタから口を出す」とはいうが、「ネキから」とはいわない。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢



地蔵物語(268)



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今京都 よろしおあがりやす 2009/07/11 12:00 am
よろしおあがりやす
ヨロシオアガリとも。どうぞ召し上がってください。食事をいただく人に向かっていう。「ごっつぉよばれますわ」「ヨロシオアガリヤス」 食後にもいう。「おーきに、ごっつぉはんどした」「ヨロシオアガリヤス」 この場合、「お粗末でした」の意味を含む。ヨロシをヨロシューとも。「よろしい」のもとは「寄らし」からで「寄る」の意味があった。室町時代にアガルは高位の人の食事が終わることにいった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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疎水(そすい) (旧フォトヴィレッジ 2007年9月6、7日掲載)
水路閣で触れた疎水について少し掲載してみよう。琵琶湖疎水は都が東京へと移り、人口も35万の都市から25万人へと激減し産業も衰退していく中で、京都復興の大事業として計画されたものだった。その初めての測量は1881(明治14)年4月に、起工式は4年後の1885(明治18)年6月に、竣工式は1890(明治23)年4月にと実に9年間にも及ぶ大工事だった。1872(明治5)年、旧暦の9月12日、新橋−横浜間に日本最初の鉄道が開業。この鉄道工事を含め当時の大工事の殆どが外国人技術者の設計や監督に頼っていた中にあって、この琵琶湖疎水工事は設計も工事も全て日本人の手による初の事業。滋賀県の大津市、三井寺近くから長等山をトンネルで抜け、山科盆地の山麓、幾つかのトンネルを流れ、日ノ岡山のトンネルを抜ける経路、中でも長等山の第一トンネル(2,436m)は当時、類をみない長大トンネルだった。


この大事業に際して当時の北垣国道知事は工部大学、今の東京大学を卒業したばかりの21才の青年技師を抜擢する。この琵琶湖疎水計画の元々の発案者は下京区の吉本源之助なる人物と云われている。この源之助が京都府に宛てた「新川通船之儀ニ付願」がその物語の始まり。源之助は友人の菊井重左衛門の東京から京へ来る度に悩まされる日ノ岡峠越えの難渋、それによる荷役運賃割の割り増しによる物価の高騰は、新川を開いて水運を充実させれば解決すると云う助言の元に先の願いを提出する。それまでにも高瀬川を開いた角倉了以が琵琶湖から高瀬川に新川を開く構想など、幾つかあったが、実現の可能性のある具体的な計画は、この願いによるものが初めてだったとのこと。


1881(明治14)年2月、北垣国道が京都府知事に就任。北垣知事は就任すると同じくして官営事業を全て廃止し、民間に払い下げるなど数々の改革を行った。京都府知事に就任した北垣は、琵琶湖疎水計画の実現を決断する。その時、北垣は琵琶湖疎水工事計画を題材とした卒業論文を仕上げている田邊(たなべ)朔朗の存在を知り、朔朗の情熱に満ちた話しぶりに北垣知事は21歳の青年技師に事業を任せることを即座に決断したといわれている。


こうして田邊朔朗を中心として疎水工事は始まる。未熟な土木技術、余り役に立たない機械類では、まだまだ人海戦術が主たる工法で、当然成功を危ぶむ声もあり、大金を投じての大事業に反対の声も大きかった。工事は難儀を極め、作業は重労働、一時は刑務所の囚人までも動員したといわれている。その囚人達の再犯率は非常に低かったということが、いかに過酷な重労働があったのかを示す一例だといわれている。計画途中で水力発電事業が計画に組み込まれるなどの変遷を経て、ダイナマイトとセメント以外の資財は外国製に頼らず、自前で調達しながらの難工事も1890(明治23)年9月、竣工式を迎える。当時の新聞は、「大文字の送り火が灯され、祇園祭の月鉾、鶏鉾、天神山、郭巨山が立ち並び、日の丸提灯行列が行われた」と伝えたという。


これにより琵琶湖より京都への水運が可能になり、九条山より蹴上にかけては、582mに36mの標高差があり勾配が15分の1の急であるためインクライン(傾斜鉄道)により三十石船をそのまま台車に載せて上下させた。また蹴上発電所で発電された電力は日本最初の路面電車開業へとつながり、各家に電灯が灯ることになる。今ではインクラインは廃止されているが、琵琶湖から山科を経て、南禅寺から鴨川への本流、そして南禅寺から哲学の道、北白川に至る分線は上水道、防火用水として、あるいはインクラインの桜並木、哲学の道を始めとする水辺に親しめる憩いの場、南禅寺水路閣は文化財として、竣工110年を迎える現在も機能している。京都の命の水ともなっている琵琶湖疎水のお話…今京都。

ヨロシオアガリとも。どうぞ召し上がってください。食事をいただく人に向かっていう。「ごっつぉよばれますわ」「ヨロシオアガリヤス」 食後にもいう。「おーきに、ごっつぉはんどした」「ヨロシオアガリヤス」 この場合、「お粗末でした」の意味を含む。ヨロシをヨロシューとも。「よろしい」のもとは「寄らし」からで「寄る」の意味があった。室町時代にアガルは高位の人の食事が終わることにいった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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疎水(そすい) (旧フォトヴィレッジ 2007年9月6、7日掲載)
水路閣で触れた疎水について少し掲載してみよう。琵琶湖疎水は都が東京へと移り、人口も35万の都市から25万人へと激減し産業も衰退していく中で、京都復興の大事業として計画されたものだった。その初めての測量は1881(明治14)年4月に、起工式は4年後の1885(明治18)年6月に、竣工式は1890(明治23)年4月にと実に9年間にも及ぶ大工事だった。1872(明治5)年、旧暦の9月12日、新橋−横浜間に日本最初の鉄道が開業。この鉄道工事を含め当時の大工事の殆どが外国人技術者の設計や監督に頼っていた中にあって、この琵琶湖疎水工事は設計も工事も全て日本人の手による初の事業。滋賀県の大津市、三井寺近くから長等山をトンネルで抜け、山科盆地の山麓、幾つかのトンネルを流れ、日ノ岡山のトンネルを抜ける経路、中でも長等山の第一トンネル(2,436m)は当時、類をみない長大トンネルだった。


この大事業に際して当時の北垣国道知事は工部大学、今の東京大学を卒業したばかりの21才の青年技師を抜擢する。この琵琶湖疎水計画の元々の発案者は下京区の吉本源之助なる人物と云われている。この源之助が京都府に宛てた「新川通船之儀ニ付願」がその物語の始まり。源之助は友人の菊井重左衛門の東京から京へ来る度に悩まされる日ノ岡峠越えの難渋、それによる荷役運賃割の割り増しによる物価の高騰は、新川を開いて水運を充実させれば解決すると云う助言の元に先の願いを提出する。それまでにも高瀬川を開いた角倉了以が琵琶湖から高瀬川に新川を開く構想など、幾つかあったが、実現の可能性のある具体的な計画は、この願いによるものが初めてだったとのこと。


1881(明治14)年2月、北垣国道が京都府知事に就任。北垣知事は就任すると同じくして官営事業を全て廃止し、民間に払い下げるなど数々の改革を行った。京都府知事に就任した北垣は、琵琶湖疎水計画の実現を決断する。その時、北垣は琵琶湖疎水工事計画を題材とした卒業論文を仕上げている田邊(たなべ)朔朗の存在を知り、朔朗の情熱に満ちた話しぶりに北垣知事は21歳の青年技師に事業を任せることを即座に決断したといわれている。


こうして田邊朔朗を中心として疎水工事は始まる。未熟な土木技術、余り役に立たない機械類では、まだまだ人海戦術が主たる工法で、当然成功を危ぶむ声もあり、大金を投じての大事業に反対の声も大きかった。工事は難儀を極め、作業は重労働、一時は刑務所の囚人までも動員したといわれている。その囚人達の再犯率は非常に低かったということが、いかに過酷な重労働があったのかを示す一例だといわれている。計画途中で水力発電事業が計画に組み込まれるなどの変遷を経て、ダイナマイトとセメント以外の資財は外国製に頼らず、自前で調達しながらの難工事も1890(明治23)年9月、竣工式を迎える。当時の新聞は、「大文字の送り火が灯され、祇園祭の月鉾、鶏鉾、天神山、郭巨山が立ち並び、日の丸提灯行列が行われた」と伝えたという。


これにより琵琶湖より京都への水運が可能になり、九条山より蹴上にかけては、582mに36mの標高差があり勾配が15分の1の急であるためインクライン(傾斜鉄道)により三十石船をそのまま台車に載せて上下させた。また蹴上発電所で発電された電力は日本最初の路面電車開業へとつながり、各家に電灯が灯ることになる。今ではインクラインは廃止されているが、琵琶湖から山科を経て、南禅寺から鴨川への本流、そして南禅寺から哲学の道、北白川に至る分線は上水道、防火用水として、あるいはインクラインの桜並木、哲学の道を始めとする水辺に親しめる憩いの場、南禅寺水路閣は文化財として、竣工110年を迎える現在も機能している。京都の命の水ともなっている琵琶湖疎水のお話…今京都。


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天を仰いで思うこと ほたえる 2009/07/10 12:00 am
ほたえる
戯れる。「兄弟二人で、ホタエテホタエテ困ります」「天井裏でネズミがホタエテル」 戯れ、じゃれ合って暴れるさまをいう。江戸時代は、ふざける、おどける、甘えるの意だった。「ほたゆ」に由来する。京丹後市ではホーザエルという。度の過ぎたいたずらはワルボタエである。いたずらする子はヤンチャ。幼児がむずかるときに言うイヤジャ(嫌だ)が訛ったとの説がある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
話のネタ雑学(45)
辛いものを食べると汗が出るのはなぜ?

日本人はカレー好きというが、本場インドのカレーの辛いことといったら、汗がドーッと出て、目の玉が飛び出しそうだという。日本のカレーも辛さを選べる店も増えてきた。

ところで、カレーにつきもののというより、辛いものにつきものの汗、寒い冬に食べても必ず汗が出てくる。
調べてみると、辛いものが入った胃は刺激を受けてカッと熱くなる。これは胃壁が刺激に対して反応したため。反応すると、体は発熱する。すると、それを冷却するために、毛細血管が拡張し、新陳代謝が激しくなり、汗を出すことで蒸散放熱が行われ体温を冷ますという図式である。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
まだ足用の使い捨てカイロがなかった頃、靴の中にトウガラシを入れていたといい、効果としてはヒリヒリするくらいよく効いたらしい。カレーが入った胃と同じことが足でも起こったためである…と、天を仰いで思うこと。
★前回はここ(←クリック)

戯れる。「兄弟二人で、ホタエテホタエテ困ります」「天井裏でネズミがホタエテル」 戯れ、じゃれ合って暴れるさまをいう。江戸時代は、ふざける、おどける、甘えるの意だった。「ほたゆ」に由来する。京丹後市ではホーザエルという。度の過ぎたいたずらはワルボタエである。いたずらする子はヤンチャ。幼児がむずかるときに言うイヤジャ(嫌だ)が訛ったとの説がある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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辛いものを食べると汗が出るのはなぜ?

日本人はカレー好きというが、本場インドのカレーの辛いことといったら、汗がドーッと出て、目の玉が飛び出しそうだという。日本のカレーも辛さを選べる店も増えてきた。

ところで、カレーにつきもののというより、辛いものにつきものの汗、寒い冬に食べても必ず汗が出てくる。
調べてみると、辛いものが入った胃は刺激を受けてカッと熱くなる。これは胃壁が刺激に対して反応したため。反応すると、体は発熱する。すると、それを冷却するために、毛細血管が拡張し、新陳代謝が激しくなり、汗を出すことで蒸散放熱が行われ体温を冷ますという図式である。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
まだ足用の使い捨てカイロがなかった頃、靴の中にトウガラシを入れていたといい、効果としてはヒリヒリするくらいよく効いたらしい。カレーが入った胃と同じことが足でも起こったためである…と、天を仰いで思うこと。
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