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天を仰いで思うこと ちょろこい 2009/08/28 12:00 am

ょろこい
「田の畦の草刈りなんてチョロコイもんや」「こんどの試験、チョロコイな、満点や」 たやすいの意味。コイは形状を示す接尾語。チョロコイは「まだるっこい(間怠っこい)」動作をするときにも使う。チョロイとも。チョロは小動物が動くさまをいう擬態語。チョロクサイともいう。「何をやらしてもぐずぐずしてチョロクサイ子やな」「たんぼの水、チョロクサイし、もうちょっと口あけて流そうか」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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を仰いで思うこと






(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

最近、自分にとって、気候がとてもよいようだ。朝、起きたくない…と感じてしまう。
秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。 日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。
朝に夕に、トニカク眠い…と、天を仰いで思うこと。


 

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今京都 かなやすい 2009/08/27 12:00 am

なやすい
容易な。「この本はカナヤスイ文章で書いたーる」 カナナとも。「この問題はカナナヤとおもう」 平易であるのヤスシは『万葉集』から用いる。ヤサシイ(易しい、優しい)は、もと「痩せる」の意味に基づく。「身を痩せるおもい」「恥ずかしい」の古い意味から、思いやりがある、おとなしい、優美なの意になり、容易なの意になった。反対の「難しい」は、京都では東京のムズカシイに対しムツカシイと発音する。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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田神宮 (旧フォトヴィレッジ 2007年7月20日掲載)
にぎやかな四条通から新釜座町に入ると、昔ながらの風情を残す一角がある。ここは、以前に紹介した膏薬図子(←クリック)。一軒の民家を見ると、手入れが行き届いた小さな祠がある。鉄板には「史蹟(せき)神田神宮」と書かれ、「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と説明されている。



将門は桓武天皇の子孫で903(延喜3)年頃に生まれる。下総国(現在の千葉県北部など)を本拠とし、上洛して藤原忠平に仕える。関東一帯に平氏一門の間で抗争が広がり、将門は関東諸国を次々に占領。さらに朝廷に対抗し、「新皇」を名乗ったことから逆賊とされ、940(天慶3)年に反対勢力に滅ぼされる。討ち取られた首は京都の町でさらされる。



伝説によれば、将門の首は生きたように目を見開き、歯ぎしりをしたという。さらに、ある夜、突然、首が笑いだし、白い光を放ちながら、自らの胴体を求めて、東の方向へ飛び去ったと言い伝えられる。その後、天変地異が相次ぎ、将門の霊を鎮めようと、各地に首塚が築かれる。最も有名な塚が東京都千代田区大手町のオフィス街にあるという。京都の神田神宮は、空也上人が将門のために、新釜座町の地に供養道場を建てたのが始まりだということだ。



将門の評価は歴史とともに変遷する。中世には祟りを恐れられ、江戸時代には最初の武士として幕府の庇護を受ける。しかし、明治時代には再び逆賊とされ、戦後は逆に朝廷の横暴と闘った英雄となり、人気を集める。今でも、将門の首を切ったと伝えられる子孫が定期的に訪れるという。千年以上を経た今も、将門伝説は消えていない。京都の町民の反骨と優しさが現れた祠だ。この祠がある家は「いつ、なぜ、この地に建立されたかはわからないが、代々、大切に受け継いできた」と語る。平将門をしのび、地元だけではなく、関東からも参拝があるという神田神宮…今京都。


 

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天を仰いで思うこと びんしょ 2009/08/26 12:00 am

んしょ
汚らわしいこと。「ビンショやし、触らんとき」 ペンショ・ビンショともいう。鬢髪(びんぱつ)を調えた「鬢所(びんしょ)」からか。便所からとの説も。子ども仲間で汚いものに触ったとき「ベンショベンショ」とはやした。便所を室町時代からベンショといった。平安時代には適当なところの意味で、便所をビンショと発音した。馬糞などを踏み付けた子に「ビビンショに触るな」などと、はやしたこともあった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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を仰いで思うこと



先日の新聞に、地蔵盆のことが掲載されていた。記事はこうだ。
散髪の途中に理容師が交代したことがある。「どうしても行かんとあかんところがあるんです」と向かった先は地蔵盆の会場。当番の時間になったのだろう。「客がいる」程度の理由では予定を変更できない。子どもの成長を祈る地蔵盆は、京都市内などでは各町内会最大のイベント。早朝のテント張りなど会場設営から、お坊さんの送り迎え、余興、景品、仕上げの花火まで手を抜けない。
というもの。確かに、地蔵盆は町内にとって一大イベントだ。



記事は続く。
中京区の竹間公園には、道路に面した東西と北の三方にお地蔵さまのほこらがある。周辺は地蔵盆の最も盛んな土地柄といえよう。ところが北のお地蔵さまは、ここに安置されるまでに存廃の危機を迎えていた。4、5年前は、お守りする大津町内の少し離れた民家の前にあったが、土地売却に伴い移転せざるを得なくなった。新たな引き受け手は現れず、お地蔵さまの居場所がなくなった。公園への移転を決めるも、費用は町内会持ち。困り果てていると、土地の購入者が基礎工事費用の負担を申し出、新しいほこらの建築に予算を超える寄付が集まった。「前の場所に長く置いてもらって感謝している。いくらか出すのは当たり前」。町内の声に感激した。地域のきずなは残っている。
というものである。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

7月の祇園祭で夏が始まり、8月16日の送り火、そして、地蔵盆と続き、京都の夏は終わっていく。今年もいくつかの地蔵盆を遠巻きに見たが、子どもたちの姿が減っている。信仰のものであるから、風物詩という表現はあまり好まないが、できれば、末永く続いて欲しいものだ…と、天を仰いで思うこと。
★地蔵盆の関連記事はここ(←クリック)とここ(←クリック)


 

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今京都 せく 2009/08/25 12:00 am


「この仕事そないにセクのんか」 急ぐ。「胸ふさがる」の意の「塞(せ)き上ぐ」の「塞く」に基づく。せき止めて逆流させることから。「セイテセカンことはない」は文字通りの意味は「急ぐようでそう急いですることではない」というのだが、真意はあんまりのんびりしてはいられないこと。ちなみに、セキマイは急ぎのことで、「急き前」の意味。気がセケルともいう。胸せく思いになることから急ぐことをいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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和長年戦没遺蹟 (旧フォトヴィレッジ 2007年7月21日掲載)
京都市上京区の西陣・聚楽学区の大宮通一条下ルに名和公園がある。この静かな児童公園に、巨大な石碑が立っている。南北朝時代に京都で戦死した鳥取県の武将・名和長年の名が刻まれた碑は、戦時中の皇国史観、最近でも少子化、市町村合併など時代の移り変わりの影響を受けてきた。



名和長年は伯耆(ほうき)国(鳥取県)の出身。隠岐島に流刑されていた後醍醐天皇を助け、鎌倉幕府の倒幕に貢献する。楠木正成、結城親光、千種忠顕と並んで「三木一草」と称されて建武の新政で要職についたが、1336年、足利尊氏に討たれた。戦死した場所が、この公園の辺りとされる。江戸時代までは、「不遇の死を遂げた長年のたたりがあるとのうわさが広まり、人が近づかなかった」ともいわれている。



長年の評価は、明治に逆転。天皇中心の国づくりを目指す政府は、天皇を献身的に助けた長年に正三位の称号を贈り、1935(昭和10)年には従一位を授けた。当時の教科書には英雄として紹介され、太平洋戦争開戦直前の1939(昭和14)年には、没した地に功績をたたえる石碑(高さ約3m)が完成。終戦後、長年の名は教科書から消え、地元でも名和公園の由来を知らない人が増えたという。ところが、終戦から40年後の1986(昭和61)年に、また転機が訪れる。長年の出身地の鳥取県名和町から、没後650年を記念し、「石碑を管理してくださる聚楽学区と姉妹関係を結びたい」との要請があった。



その後、小学生が交互に訪問するようになり、名和町の子どもたちが西陣織の体験をするなど交流を深めていたが、今度は、聚楽学区の小学校が少子化の影響で1997(平成9)年3月に閉校。名和町も市町村合併で「大山町」となり、名前が消えた。交流事業も途絶えたままになっている。関係者の話によると、交流の予算付けも難しく、再開予定はないということだ。また、由来を知らない住民が増え出し、寂しい話。没後500年以上経って建立された石碑は、現在、閑静な住宅地にたたずんでいる。自分の名が戦意高揚に利用され、地域交流にも生かされた長年。このまま消え去ってしまうのだろうかと心配になる。



遺跡の創建は1886(明治19)年とされ、今の石碑は1939(昭和14)年に建てられた。現在は京都市の児童公園で、石碑は上京区の史蹟百選にも選ばれている…今京都。


 

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天を仰いで思うこと かぼちゃ 2009/08/24 12:00 am

ぼちゃ
「カボチャの炊いたんおいしいな」 江戸時代には、大阪でナンキン(南京)、江戸でトーナス(唐茄子)、京都でカボチャと使い分けた。室町時代にカンボジアから伝来したのでいう。尼門跡語ではカボとも。鹿ケ谷の安楽寺で7月25日、「カボチャ供養」がある。江戸時代後期、「夏の土用に、カボチャを供養すると諸病退散できる」と、ヒョウタン型の鹿ケ谷カボチャを近在の農家が寺に供えた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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を仰いで思うこと






(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

ちょっと、バタバタしてきたので、写真の掲載だけで、かんにんして…と、天を仰いで思うこと。


 

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