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天を仰いで思うこと ちょっとそこまで 2009/09/02 12:00 am
ちょっとそこまで
近所の人が出掛けるのを見て「どこ行きどす」と話しかけると、「チョットソコマデ」と返事が返ってくる。それ以上、行き先を追求するつもりはない。チョットソコマデの「そこ」がどこかはっきりさせるわけではない。遠回しに表現するが、京ことばの特性の一つ。買い物に行って、店の釣り銭が違っていた時、「ちごうてます」と言わないで、「ちょっと足らんように思いますけど」と遠回しに言う。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
天を仰いで思うこと
滋賀県に「芋競べ祭」という奇祭があると新聞に掲載されていた。東西二つの集落の若者が、それぞれの地区で育った里芋の長さを競い農作物の豊凶を占う神事。たわいもない競争のようだが、祭りは真剣極まりないというから驚きだ。集落で最も長い里芋を選び、洗い清めた石を敷き詰めた祭場に運び込む。長さを測った後も「西の芋より東の芋は5〜6丈も長い」「東の芋より西の芋は5〜6丈も長い」と譲らない。何度も測り直し、日が暮れても続いたことがあったとか。

真剣さの背景に両集落の対抗意識があるのはもちろんだが、かつて勝敗が水利権などに結びついていたためともされている。生活がかかった昔、より白熱したというのも無理はないことだろう。今年も祭りに向け、若者たちはいま所作の練習を続けているらしい。

さて、民主党の大勝で終えた衆院選。こちらは政権をかけての勝負だけに、どの党もいつもに増して真剣だった。互いに政策の優位を訴え続けていた。芋競べは両集落に緊張感を生み、地域に活力をもたらしたと評価される。政党間にみなぎる緊張感も大いに歓迎すべきことだろう。日本の政治に活力をもたらすのは間違いないことだろう。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
しかし、衆院選は芋競べとは別のものである。選挙の結果は国民全体の暮らし全般に直結する。政権交代の夢を果たした民主党。今後は、どうなっていくか、今まで以上の真剣さで政策を見極めねばならないかもしれない…と、天を仰いで思うこと。

近所の人が出掛けるのを見て「どこ行きどす」と話しかけると、「チョットソコマデ」と返事が返ってくる。それ以上、行き先を追求するつもりはない。チョットソコマデの「そこ」がどこかはっきりさせるわけではない。遠回しに表現するが、京ことばの特性の一つ。買い物に行って、店の釣り銭が違っていた時、「ちごうてます」と言わないで、「ちょっと足らんように思いますけど」と遠回しに言う。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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天を仰いで思うこと
滋賀県に「芋競べ祭」という奇祭があると新聞に掲載されていた。東西二つの集落の若者が、それぞれの地区で育った里芋の長さを競い農作物の豊凶を占う神事。たわいもない競争のようだが、祭りは真剣極まりないというから驚きだ。集落で最も長い里芋を選び、洗い清めた石を敷き詰めた祭場に運び込む。長さを測った後も「西の芋より東の芋は5〜6丈も長い」「東の芋より西の芋は5〜6丈も長い」と譲らない。何度も測り直し、日が暮れても続いたことがあったとか。

真剣さの背景に両集落の対抗意識があるのはもちろんだが、かつて勝敗が水利権などに結びついていたためともされている。生活がかかった昔、より白熱したというのも無理はないことだろう。今年も祭りに向け、若者たちはいま所作の練習を続けているらしい。

さて、民主党の大勝で終えた衆院選。こちらは政権をかけての勝負だけに、どの党もいつもに増して真剣だった。互いに政策の優位を訴え続けていた。芋競べは両集落に緊張感を生み、地域に活力をもたらしたと評価される。政党間にみなぎる緊張感も大いに歓迎すべきことだろう。日本の政治に活力をもたらすのは間違いないことだろう。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
しかし、衆院選は芋競べとは別のものである。選挙の結果は国民全体の暮らし全般に直結する。政権交代の夢を果たした民主党。今後は、どうなっていくか、今まで以上の真剣さで政策を見極めねばならないかもしれない…と、天を仰いで思うこと。


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今京都 ひざぼん 2009/09/01 12:00 am
ひざぼん
「ヒザボン擦りむいて痛い」 ひざ頭のこと。「膝坊主」を略した「膝坊」から。ヒザボシとも言う。「膝法師」に由来する。ひざ頭が法師の頭の形に似ていることによる。「ヒザボン談合」という諺がある。大変困っているときには、膝も相談相手になるという意味である。「膝とも談合」とも。誰にでも相談してみれば、それだけの効果があるというもの。談合を、昔はダンコウと発音した。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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長月。今日から9月。暦の上では「秋」だ。「秋」という言葉は、実り豊かなイメージの奥に凋落(ちょうらく)の響きを宿す。「秋扇(しゅうせん)」といえば、夏には重宝された扇が、秋風とともに打ち捨てられて顧みられなくなる悲哀をいう。まだまだ残暑の厳しい日もあるだろうが、秋を出迎えに、どこかへ行ってみたいものだ。
薬祖神祠(やくそじんし) (旧フォトヴィレッジ 2007年2月23日掲載)
薬問屋が並ぶ二条通の一角にある祠(ほこら)「薬祖神祠」。ここには、なんと日本・中国・ギリシャの神が合祀(ごうし)されているという。大巳貴命(おおなむちのみこと)(大国主命(おおくにぬしのみこと))と小彦名命(すくなひこなのみこと)、中国の医薬の神様「神農」、西洋医学の父とされるギリシャの哲学者「ヒポクラテス」だという。京都では「一条戻り橋、二条きぐすり屋…」といわれるように、二条通は1600年ごろから薬の町として栄えた。

11月に行われる「薬祖神祭」は江戸後期に「薬師講」として始まったとされ、二条の薬業仲間が集まり酒を酌み交わした時に神農像などを祭ったという。この祭りは「二条の神農さん」と呼ばれ、京都の年中行事の一つに数えられるほど盛大だった。1864年の蛤(はまぐり)御門の変で、二条の薬業街が焼失した時でさえも「神農尊の御神事滞りなく相済まし申候」との記録があり、祭りは例年通り行われたという。明治維新の後、一時中断されていたが、1880年に復興した。当時、欧州からも薬を輸入するようになっていたため、西洋の神様も必要とヒポクラテスを祖神に加え、1906年に現在の地に祠を移した。現在保管している神農像は、宇治市の黄檗山万福寺の隠元が持ち込んだものとされ、1858年のコレラ流行の時も、悪疫をはらったと伝わる。

東洞院通から衣棚通まで夜店が並び、ひしめき合うほどの人出だった「神農さん」も、今では夜店がなくなるくらいに衰退したとのこと。衰退した背景は50軒以上あった薬問屋も20年ほど前から大手企業に吸収合併され、10軒ほどに減ったというもの。祠の向かって左隣にあるのは江戸時代からの薬問屋で今でも現役。10軒ほどのうちの1軒なんだけれど、その歴史に驚く。「薬は健康管理にはなくてはならないもの。市民にもご利益は大きい」ので薬祖神祠を核にした町の活性化を期待しているというが、さて結果はいかに…。
さて、薬祖神祭は、明治天皇の誕生日にちなんで11月2、3日だったが、現在は第1金曜に改められた。神主を招いて神事を行い、神楽を奉納。参拝者には薬効のある笹の葉を配布。笹にはお守り袋と陶製のトラが取り付けられてある、とのことだ…今京都。

「ヒザボン擦りむいて痛い」 ひざ頭のこと。「膝坊主」を略した「膝坊」から。ヒザボシとも言う。「膝法師」に由来する。ひざ頭が法師の頭の形に似ていることによる。「ヒザボン談合」という諺がある。大変困っているときには、膝も相談相手になるという意味である。「膝とも談合」とも。誰にでも相談してみれば、それだけの効果があるというもの。談合を、昔はダンコウと発音した。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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長月。今日から9月。暦の上では「秋」だ。「秋」という言葉は、実り豊かなイメージの奥に凋落(ちょうらく)の響きを宿す。「秋扇(しゅうせん)」といえば、夏には重宝された扇が、秋風とともに打ち捨てられて顧みられなくなる悲哀をいう。まだまだ残暑の厳しい日もあるだろうが、秋を出迎えに、どこかへ行ってみたいものだ。
薬祖神祠(やくそじんし) (旧フォトヴィレッジ 2007年2月23日掲載)
薬問屋が並ぶ二条通の一角にある祠(ほこら)「薬祖神祠」。ここには、なんと日本・中国・ギリシャの神が合祀(ごうし)されているという。大巳貴命(おおなむちのみこと)(大国主命(おおくにぬしのみこと))と小彦名命(すくなひこなのみこと)、中国の医薬の神様「神農」、西洋医学の父とされるギリシャの哲学者「ヒポクラテス」だという。京都では「一条戻り橋、二条きぐすり屋…」といわれるように、二条通は1600年ごろから薬の町として栄えた。

11月に行われる「薬祖神祭」は江戸後期に「薬師講」として始まったとされ、二条の薬業仲間が集まり酒を酌み交わした時に神農像などを祭ったという。この祭りは「二条の神農さん」と呼ばれ、京都の年中行事の一つに数えられるほど盛大だった。1864年の蛤(はまぐり)御門の変で、二条の薬業街が焼失した時でさえも「神農尊の御神事滞りなく相済まし申候」との記録があり、祭りは例年通り行われたという。明治維新の後、一時中断されていたが、1880年に復興した。当時、欧州からも薬を輸入するようになっていたため、西洋の神様も必要とヒポクラテスを祖神に加え、1906年に現在の地に祠を移した。現在保管している神農像は、宇治市の黄檗山万福寺の隠元が持ち込んだものとされ、1858年のコレラ流行の時も、悪疫をはらったと伝わる。

東洞院通から衣棚通まで夜店が並び、ひしめき合うほどの人出だった「神農さん」も、今では夜店がなくなるくらいに衰退したとのこと。衰退した背景は50軒以上あった薬問屋も20年ほど前から大手企業に吸収合併され、10軒ほどに減ったというもの。祠の向かって左隣にあるのは江戸時代からの薬問屋で今でも現役。10軒ほどのうちの1軒なんだけれど、その歴史に驚く。「薬は健康管理にはなくてはならないもの。市民にもご利益は大きい」ので薬祖神祠を核にした町の活性化を期待しているというが、さて結果はいかに…。
さて、薬祖神祭は、明治天皇の誕生日にちなんで11月2、3日だったが、現在は第1金曜に改められた。神主を招いて神事を行い、神楽を奉納。参拝者には薬効のある笹の葉を配布。笹にはお守り袋と陶製のトラが取り付けられてある、とのことだ…今京都。


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天を仰いで思うこと しんどい 2009/08/31 12:00 am
しんどい
つらい。苦しい。疲れている。「マラソン走ってシンドイわ」「社長さんの話は聞いててシンドイ」「辛労」にイを付け形容詞化した「辛労い」がなまって、シンドイとなった。シンロウをシンドウといった。安原貞室の『片言』に「辛労を、しんだうと云ふこと如何」とある。『東京京阪言語違』(明治19年刊)には、京阪のシンドイを東京のクタビレタ、京阪のシンドヤノーを東京のガッカリシタと比べている。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
天を仰いで思うこと



(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
今日は写真の掲載のみで…と、天を仰いで思うこと。

つらい。苦しい。疲れている。「マラソン走ってシンドイわ」「社長さんの話は聞いててシンドイ」「辛労」にイを付け形容詞化した「辛労い」がなまって、シンドイとなった。シンロウをシンドウといった。安原貞室の『片言』に「辛労を、しんだうと云ふこと如何」とある。『東京京阪言語違』(明治19年刊)には、京阪のシンドイを東京のクタビレタ、京阪のシンドヤノーを東京のガッカリシタと比べている。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
天を仰いで思うこと



(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
今日は写真の掲載のみで…と、天を仰いで思うこと。


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今京都 つかまえ 2009/08/30 12:00 am
つかまえ
鬼ごっこのこと。「ツカマエして遊ぼう」 公家ことばでも、ツカマエといった。江戸時代には、ツカマエボということばが使われた。『物類称呼』に「京にて、つかまえぼと云」と記されている。「つかまえる」に基づく。京都府南部ではツカマエコンボ・ツカマエオニのような形もある。一方、府北部ではオニゴトのほか、ボウ(追う)から、ボイヤイ(追い合い)・ボイヤともいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
羅漢



地蔵物語(275)


鬼ごっこのこと。「ツカマエして遊ぼう」 公家ことばでも、ツカマエといった。江戸時代には、ツカマエボということばが使われた。『物類称呼』に「京にて、つかまえぼと云」と記されている。「つかまえる」に基づく。京都府南部ではツカマエコンボ・ツカマエオニのような形もある。一方、府北部ではオニゴトのほか、ボウ(追う)から、ボイヤイ(追い合い)・ボイヤともいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢



地蔵物語(275)



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今京都 ばったりしょうぎ 2009/08/29 12:00 am
ばったりしょうぎ
京の町家によく見かけた。表の入り口のそばに取り付けられた床几(しょうぎ)。脚を折り畳むことができる。商品を並べて売るのに用いた。家の軒下など設置されている。留め金を外して下ろすと床几になる。「あの家には、まだバッタリショウギが残ってますわ」 バッタリは床机を上げ下げするさまの擬態語。昭和初期、子どもたちが並んで腰を下ろして遊んだものである。バッタンショーギともいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
★関連記事はここ(←クリック)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
護王神社 (旧フォトヴィレッジ 2007年1月23〜29日掲載)
今年(2007年)の干支、イノシシの神社で知られる京都市上京区の護王神社。祭神の和気清麻呂が流刑にされた時、イノシシ300頭が現れ災難を救ったという「日本後記」の説話で有名だ。足腰の神様としても知られ、都大路を走る駅伝の強豪校やサッカーチームの選手らが願を懸けにくる。


イノシシと清麻呂、足腰のかかわりは、奈良時代の「道鏡事件」(769年)にさかのぼる。僧・弓削道鏡は称徳天皇に気に入られて法王に出世。さらに皇位を狙い宇佐八幡宮(大分県)に、にせの神託を出させた。だが清麻呂は称徳天皇の命で宇佐へ向かい「天つ日(ひ)嗣(つぎ)(後継者)は必ず皇緒を立てよ」との神託を持ち帰り陰謀をくじいた。道鏡は清麻呂に死罪をと激怒。称徳天皇が大隅(鹿児島県)へ流すにとどめた。


清麻呂は道鏡により足の筋を切られ歩けない。粗末な輿(こし)での道中、宇佐八幡宮へ立ち寄るところでイノシシ300頭が登場する。清麻呂を守るように囲み、十里の道を先導した。伝説は「猪の頭」のかぶりものを付け祭礼を営む習慣のある秦氏などが配流途中の清麻呂を助けたことから生まれたとする解釈もある。八幡宮に到着するころには清麻呂の足が治った。護王神社はイノシシとの言い伝えにかけて、足萎(な)え回復のご利益をうたう。


神護寺(右京区)から京都御苑の西へ移って121年目の同神社は「イノシシ」づくし。昨夏設けた雌雄一対の「狛(こま)イノシシ」は「畑を荒らすなど良くないイメージがあるが、愛されるには、かわいくて勢いがなくては」と表情や体の丸みにこだわった。参拝の鈴も三つに増やし「多くの人にゆっくりしていってもらいたい」と願う。


本殿左の大木の根元には、イノシシの石像を囲むように紙のイノシシのついたくし、右の大木の根元にはミニチュアののぼりが数百本もある。大勢の参拝者が足腰の健康を願って、差し込んでいく。境内にはイノシシの土鈴や絵馬、はく製がひしめき、寄贈もあってその数3000以上とか。清麻呂の進言で開かれた平安京は1200年を経てにぎわい、清麻呂を守るイノシシは今でも増え続けている…今京都。

京の町家によく見かけた。表の入り口のそばに取り付けられた床几(しょうぎ)。脚を折り畳むことができる。商品を並べて売るのに用いた。家の軒下など設置されている。留め金を外して下ろすと床几になる。「あの家には、まだバッタリショウギが残ってますわ」 バッタリは床机を上げ下げするさまの擬態語。昭和初期、子どもたちが並んで腰を下ろして遊んだものである。バッタンショーギともいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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護王神社 (旧フォトヴィレッジ 2007年1月23〜29日掲載)
今年(2007年)の干支、イノシシの神社で知られる京都市上京区の護王神社。祭神の和気清麻呂が流刑にされた時、イノシシ300頭が現れ災難を救ったという「日本後記」の説話で有名だ。足腰の神様としても知られ、都大路を走る駅伝の強豪校やサッカーチームの選手らが願を懸けにくる。


イノシシと清麻呂、足腰のかかわりは、奈良時代の「道鏡事件」(769年)にさかのぼる。僧・弓削道鏡は称徳天皇に気に入られて法王に出世。さらに皇位を狙い宇佐八幡宮(大分県)に、にせの神託を出させた。だが清麻呂は称徳天皇の命で宇佐へ向かい「天つ日(ひ)嗣(つぎ)(後継者)は必ず皇緒を立てよ」との神託を持ち帰り陰謀をくじいた。道鏡は清麻呂に死罪をと激怒。称徳天皇が大隅(鹿児島県)へ流すにとどめた。


清麻呂は道鏡により足の筋を切られ歩けない。粗末な輿(こし)での道中、宇佐八幡宮へ立ち寄るところでイノシシ300頭が登場する。清麻呂を守るように囲み、十里の道を先導した。伝説は「猪の頭」のかぶりものを付け祭礼を営む習慣のある秦氏などが配流途中の清麻呂を助けたことから生まれたとする解釈もある。八幡宮に到着するころには清麻呂の足が治った。護王神社はイノシシとの言い伝えにかけて、足萎(な)え回復のご利益をうたう。


神護寺(右京区)から京都御苑の西へ移って121年目の同神社は「イノシシ」づくし。昨夏設けた雌雄一対の「狛(こま)イノシシ」は「畑を荒らすなど良くないイメージがあるが、愛されるには、かわいくて勢いがなくては」と表情や体の丸みにこだわった。参拝の鈴も三つに増やし「多くの人にゆっくりしていってもらいたい」と願う。


本殿左の大木の根元には、イノシシの石像を囲むように紙のイノシシのついたくし、右の大木の根元にはミニチュアののぼりが数百本もある。大勢の参拝者が足腰の健康を願って、差し込んでいく。境内にはイノシシの土鈴や絵馬、はく製がひしめき、寄贈もあってその数3000以上とか。清麻呂の進言で開かれた平安京は1200年を経てにぎわい、清麻呂を守るイノシシは今でも増え続けている…今京都。

