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今京都 しりからしりから 2009/12/01 12:00 am
しりからしりから
後から後から。次々と。「シリカラシリカラ用事ができて、なかなかお目にかかれまへんな」「尻から」を繰り返す。一つの行為が終わったあと、すぐ次の行為が続く気持ち。シリは後方の意でいちばん末をシリというから、洛北の大原で末っ子はシリゴである。トッカケヒッカケも「次々に」の意。「トッカケヒッカケお客さんが来やはってせわしないことや」 トッカケは「取り替え」、ヒッカケは「引き換え」の変化。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
師走。今日から12月。京都の12月といえば、吉例顔見世興行だ。この顔見世興行には、ある歴史がある。それは、京都には、元和年間(1615〜24)に四条通をはさんで七つの櫓(座・芝居の興行)が京都所司代により公許されて存在したが、明治までに南座、北座以外は廃業。北座も明治26年(1893)に廃座となり、南座だけが残った。そもそも「顔見世」とは本来、各座と一年契約を結んでいた役者か交代し、新たな顔ぶれでおこなう最初の興行のことである。現在でも10月に名古屋御園座、11月に東京歌舞伎座でもおこなわれているが、江戸時代から続くのは京都の南座だけである。南座はもともと上方役者中心の興行だったが、大正期に、東西の花形役者が勢揃いして競演する興行となった、ということだ。吉例顔見世興行11月30日〜12月26日まで。
赤穂義士遺髪塔跡/忠臣蔵 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月21日掲載)
堀川通と紫明通の交差点を南へ行くと、西側の歩道沿いに石碑が立っている。碑には「赤穂義士四十六士遺髪塔跡」の文字が刻まれている。この地には「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士が仕えた浅野家ゆかりの瑞光院(京都市山科区)があった。遺髪塔の由来は瑞光院に伝わっている。

赤穂浪士の吉良邸討ち入りから2ヶ月半後の1703(元禄16)年2月初旬、浪士たちを預かっている各大名家を瑞光院の使いの僧が訪れた。処罰を待つ浪士たちの髪をもらい受けるためだった。瑞光院は、浅野家の家老だった大石内蔵助良雄の遺志を受けて境内に遺髪を埋め、浪士46人の名前や戒名を記した石塔を建立した。

瑞光院は赤穂浅野家の祈願寺で、浪士たちが仕えた主君浅野内匠頭長矩の妻と遠縁の和尚もいた。吉良上野介に切りかかり、切腹した浅野内匠頭の遺品を埋葬したとされる墓もあり、墓参した浪士たちが討ち入りについて話し合ったと伝わっている。

1613(慶長18)年創建の瑞光院境内は、かつては約2000坪(約6600平方メートル)の広さだった。45年前、隣接する大日本スクリーン製造の工場拡張に伴い山科区に移転したが、石碑の周辺に「瑞光院前町」の地名が残っている。石碑は、赤穂浪士ゆかりの寺院がこの地にあったことを後世に伝えようと、2年前に同社が敷地内に建てた。歩道から見える位置にある。

山科区には大石内蔵助にかかわる社寺がいくつかある。毎年12月に開かれている「山科義士まつり」では、赤穂浪士の行列の代表者らが瑞光院を訪れるという。山科に移ったのは偶然だが、さらに赤穂義士にゆかりの深い寺院になったということか…。

今年も討ち入りの日が近づくに連れ、この遺髪塔を訪れる人が増えるのだろうと想像する。浪士のうち寺坂吉右衛門は自害していないために遺髪塔に刻名がないとされている。だからひとり少ない46人。季節的にはちょっと早いけれど「忠臣蔵」特集を「今京都」なりに組んでみた…今京都。

後から後から。次々と。「シリカラシリカラ用事ができて、なかなかお目にかかれまへんな」「尻から」を繰り返す。一つの行為が終わったあと、すぐ次の行為が続く気持ち。シリは後方の意でいちばん末をシリというから、洛北の大原で末っ子はシリゴである。トッカケヒッカケも「次々に」の意。「トッカケヒッカケお客さんが来やはってせわしないことや」 トッカケは「取り替え」、ヒッカケは「引き換え」の変化。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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師走。今日から12月。京都の12月といえば、吉例顔見世興行だ。この顔見世興行には、ある歴史がある。それは、京都には、元和年間(1615〜24)に四条通をはさんで七つの櫓(座・芝居の興行)が京都所司代により公許されて存在したが、明治までに南座、北座以外は廃業。北座も明治26年(1893)に廃座となり、南座だけが残った。そもそも「顔見世」とは本来、各座と一年契約を結んでいた役者か交代し、新たな顔ぶれでおこなう最初の興行のことである。現在でも10月に名古屋御園座、11月に東京歌舞伎座でもおこなわれているが、江戸時代から続くのは京都の南座だけである。南座はもともと上方役者中心の興行だったが、大正期に、東西の花形役者が勢揃いして競演する興行となった、ということだ。吉例顔見世興行11月30日〜12月26日まで。
赤穂義士遺髪塔跡/忠臣蔵 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月21日掲載)
堀川通と紫明通の交差点を南へ行くと、西側の歩道沿いに石碑が立っている。碑には「赤穂義士四十六士遺髪塔跡」の文字が刻まれている。この地には「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士が仕えた浅野家ゆかりの瑞光院(京都市山科区)があった。遺髪塔の由来は瑞光院に伝わっている。

赤穂浪士の吉良邸討ち入りから2ヶ月半後の1703(元禄16)年2月初旬、浪士たちを預かっている各大名家を瑞光院の使いの僧が訪れた。処罰を待つ浪士たちの髪をもらい受けるためだった。瑞光院は、浅野家の家老だった大石内蔵助良雄の遺志を受けて境内に遺髪を埋め、浪士46人の名前や戒名を記した石塔を建立した。

瑞光院は赤穂浅野家の祈願寺で、浪士たちが仕えた主君浅野内匠頭長矩の妻と遠縁の和尚もいた。吉良上野介に切りかかり、切腹した浅野内匠頭の遺品を埋葬したとされる墓もあり、墓参した浪士たちが討ち入りについて話し合ったと伝わっている。

1613(慶長18)年創建の瑞光院境内は、かつては約2000坪(約6600平方メートル)の広さだった。45年前、隣接する大日本スクリーン製造の工場拡張に伴い山科区に移転したが、石碑の周辺に「瑞光院前町」の地名が残っている。石碑は、赤穂浪士ゆかりの寺院がこの地にあったことを後世に伝えようと、2年前に同社が敷地内に建てた。歩道から見える位置にある。

山科区には大石内蔵助にかかわる社寺がいくつかある。毎年12月に開かれている「山科義士まつり」では、赤穂浪士の行列の代表者らが瑞光院を訪れるという。山科に移ったのは偶然だが、さらに赤穂義士にゆかりの深い寺院になったということか…。

今年も討ち入りの日が近づくに連れ、この遺髪塔を訪れる人が増えるのだろうと想像する。浪士のうち寺坂吉右衛門は自害していないために遺髪塔に刻名がないとされている。だからひとり少ない46人。季節的にはちょっと早いけれど「忠臣蔵」特集を「今京都」なりに組んでみた…今京都。


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天を仰いで思うこと もぞく 2009/11/30 12:00 am
もぞく
とろろ昆布。おぼろ昆布。「モゾクで巻いたおにぎりはおいしいな」 モズク、モドクとも。水雲(もずく)は褐藻類の海草。藻に付いて生じるのでモツクから。「水雲」は平安時代の漢和辞書『和名抄』に記され、『お湯殿の上の日記』に「もつく」と記される。とろろ昆布はとろろ汁にして食べた。昆布を京ではコブと発音し、塩昆布はシオコブ。昆布を熨斗(のし)とした昆布熨斗は祝儀に用いる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(94)
ナラ枯れに思うこと

栗東市の栗東自然観察の森に行くと、ナラの木の幹におびただしい数のつまようじが刺さっているという。1本の木に400〜500本。かなり高い場所にも刺してあるとのことだ。これは、「ナラ枯れの対策」。これだけ刺せたのは、ボランティアの協力のたまものという。

ナラ枯れはカシノナガキクイムシが幹に穴を開けて侵入し、虫に付着した菌の影響で木が枯れる現象だ。滋賀県では最初に県北部でナラ枯れが見つかった。同森では昨年、初めて3本確認されたが、今年さらに14本が被害を受けているのが分かり、森主催の講座修了生でつくる「友の会」会員や利用者らに呼び掛けて対策グループを立ち上げたらしい。幹に虫が開けた穴に殺菌剤を注入し、つまようじを差し込んで虫を閉じこめる。一つ一つ積み重ねる手の込んだ作業だ。広い園内。中高年が多い約50人の対策グループが人海戦術で作業に取り組み、なお進行中とのことだ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
「それぞれが手の空いた日に来て作業する」ところもボランティアらしい。1988年に名神栗東インターに近い近郊の里山にできた同森。自然の好きな人が市外からも集いさまざまな仕事で森を支えてきたという。公共の仕事にボランティアの力がより重要な時代になったのは間違いない。また、市民参加は「やりがい」にもつながる。自然好きはいい人ばかり…と、天を仰いで思うこと。

とろろ昆布。おぼろ昆布。「モゾクで巻いたおにぎりはおいしいな」 モズク、モドクとも。水雲(もずく)は褐藻類の海草。藻に付いて生じるのでモツクから。「水雲」は平安時代の漢和辞書『和名抄』に記され、『お湯殿の上の日記』に「もつく」と記される。とろろ昆布はとろろ汁にして食べた。昆布を京ではコブと発音し、塩昆布はシオコブ。昆布を熨斗(のし)とした昆布熨斗は祝儀に用いる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(94)
ナラ枯れに思うこと

栗東市の栗東自然観察の森に行くと、ナラの木の幹におびただしい数のつまようじが刺さっているという。1本の木に400〜500本。かなり高い場所にも刺してあるとのことだ。これは、「ナラ枯れの対策」。これだけ刺せたのは、ボランティアの協力のたまものという。

ナラ枯れはカシノナガキクイムシが幹に穴を開けて侵入し、虫に付着した菌の影響で木が枯れる現象だ。滋賀県では最初に県北部でナラ枯れが見つかった。同森では昨年、初めて3本確認されたが、今年さらに14本が被害を受けているのが分かり、森主催の講座修了生でつくる「友の会」会員や利用者らに呼び掛けて対策グループを立ち上げたらしい。幹に虫が開けた穴に殺菌剤を注入し、つまようじを差し込んで虫を閉じこめる。一つ一つ積み重ねる手の込んだ作業だ。広い園内。中高年が多い約50人の対策グループが人海戦術で作業に取り組み、なお進行中とのことだ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
「それぞれが手の空いた日に来て作業する」ところもボランティアらしい。1988年に名神栗東インターに近い近郊の里山にできた同森。自然の好きな人が市外からも集いさまざまな仕事で森を支えてきたという。公共の仕事にボランティアの力がより重要な時代になったのは間違いない。また、市民参加は「やりがい」にもつながる。自然好きはいい人ばかり…と、天を仰いで思うこと。


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今京都 もみうり 2009/11/29 12:00 am
もみうり
瓜を薄く切り塩で揉み、酢をかけたもの。「今晩のおかずにモミウリつくっといてんか」 東京でウリモミ、大阪ではザクザクともいう。胡瓜は黄・瓜の意から。マッカは真桑ウリ。もと美濃の真桑村産に基づく。京都御所では瓜をオウリといい、白瓜はシロオウリ、西瓜はアカキオウリ、干し瓜はホリホリとも言った。味噌漬けの白瓜はコオノウリ。瓜をナリノモノ、ナリモノと記された女房ことばの文献がある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢



地蔵物語(285)


瓜を薄く切り塩で揉み、酢をかけたもの。「今晩のおかずにモミウリつくっといてんか」 東京でウリモミ、大阪ではザクザクともいう。胡瓜は黄・瓜の意から。マッカは真桑ウリ。もと美濃の真桑村産に基づく。京都御所では瓜をオウリといい、白瓜はシロオウリ、西瓜はアカキオウリ、干し瓜はホリホリとも言った。味噌漬けの白瓜はコオノウリ。瓜をナリノモノ、ナリモノと記された女房ことばの文献がある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢



地蔵物語(285)



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今京都 ぼん 2009/11/28 12:00 am
ぼん
坊や。「おうちのボンよう走らはるな」 ボンボンとも。「坊」からボンになった。目上から目下にいう愛称。老舗では、大人になってもボンと呼び続けることがあった。兄弟が多いと、アニボン、ナカボン、コボンと区別した。コボンチャンとチャンをつけると敬称。弟が兄を呼ぶのにもオッキニー(長兄)、チューニー(仲兄)、チッコニー・チッコニャン(小さい兄さん)のように呼んだ。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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大石神社(おおいしじんじゃ)/忠臣蔵 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月17日掲載)


花山稲荷神社より南西方向に足を伸ばしたところに大石神社がある。


赤穂浪士の大石良雄(おおいしよしお)を祀る。大石良雄は赤穂城明け渡しの後、妹の夫の進藤源四郎の縁故でこの地に隠棲。1935(昭和10)年浪曲家吉田大和之丞らが創建した。大石良雄は通称内蔵助。いわずとしれた赤穂四十七士の首領。1701(元禄14)年4月、脇坂安照らに赤穂城を明け渡し、6月にこの山科へ移る。諸方の同志と連絡をとりつつ浅野家再興の工作、再興ならずば吉良への復讐と二者択一に時を送る。


翌1702(元禄15)年2月15日に山科、7月26日に京の円山、重阿弥の別荘に同志を集め、吉良への復讐を決定。10月7日江戸へ出発。12月15日未明、吉良を討った。翌1703(元禄16)年2月4日、江戸の細川邸で切腹。高輪の泉岳寺に葬る。


ここ大石神社には「忠臣蔵宝物殿」があり、中は忠臣蔵に関するものが展示されている。仇討ちとか切腹とか物騒なお話だが、境内には長閑な時間が流れていた。この静けさの中で赤穂四十七士への思いはさらに深まる…今京都。

坊や。「おうちのボンよう走らはるな」 ボンボンとも。「坊」からボンになった。目上から目下にいう愛称。老舗では、大人になってもボンと呼び続けることがあった。兄弟が多いと、アニボン、ナカボン、コボンと区別した。コボンチャンとチャンをつけると敬称。弟が兄を呼ぶのにもオッキニー(長兄)、チューニー(仲兄)、チッコニー・チッコニャン(小さい兄さん)のように呼んだ。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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大石神社(おおいしじんじゃ)/忠臣蔵 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月17日掲載)


花山稲荷神社より南西方向に足を伸ばしたところに大石神社がある。


赤穂浪士の大石良雄(おおいしよしお)を祀る。大石良雄は赤穂城明け渡しの後、妹の夫の進藤源四郎の縁故でこの地に隠棲。1935(昭和10)年浪曲家吉田大和之丞らが創建した。大石良雄は通称内蔵助。いわずとしれた赤穂四十七士の首領。1701(元禄14)年4月、脇坂安照らに赤穂城を明け渡し、6月にこの山科へ移る。諸方の同志と連絡をとりつつ浅野家再興の工作、再興ならずば吉良への復讐と二者択一に時を送る。


翌1702(元禄15)年2月15日に山科、7月26日に京の円山、重阿弥の別荘に同志を集め、吉良への復讐を決定。10月7日江戸へ出発。12月15日未明、吉良を討った。翌1703(元禄16)年2月4日、江戸の細川邸で切腹。高輪の泉岳寺に葬る。


ここ大石神社には「忠臣蔵宝物殿」があり、中は忠臣蔵に関するものが展示されている。仇討ちとか切腹とか物騒なお話だが、境内には長閑な時間が流れていた。この静けさの中で赤穂四十七士への思いはさらに深まる…今京都。


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天を仰いで思うこと はたのあば 2009/11/27 12:00 am
はたのあば
京都・右京の高雄や梅ヶ畑から梯子や鞍掛を売りに来る女性のこと。「梯子に鞍掛いらんかえー」と呼び売りしながら京都市内を歩いた。「畑のおばさん」の意味から。京都ではかつてオバをアバと呼ぶことが多かった。頭の上に「輪」と称する布製の敷物を置き、その上に梯子や鞍掛をのせていた。そうした風景は、今では見つけにくい時代になった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(93)
紅葉の季節に思うこと

大木になるケヤキだが、葉は小ぶり。並木道や公園ではらはらと落ちカサコソと舞う。その様子を見ていると、澄んだ空気の流れがよく分かる。手入れされたカエデの名所だけでなく、街中が紅葉、黄葉、落葉のころとなった。

秋風の吹きにし日より音羽山峰のこずゑも色づきにけり(紀貫之)。山はいうまでもなし。職場の窓から見渡せる山は、北の方角の左側から染まりだした。右からもえた春を思い出しては、興に入る。「哲学の道」の石畳沿いに植えた下草の養生のため、一部区間を立ち入り禁止になっていたが、それを解除するという。下草は、樹勢の衰えたサクラの根が踏まれて傷まないよう地面を覆う。とはいえ、錦秋のころまで養生していては無粋とされる。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
しかし昨年、サクラが咲く前に植えて開放したところ、踏まれてだめになった。天皇、皇后両陛下が近くの霊鑑寺を訪れて「京都はモミジがよろしいね」とされた。最近、修学旅行の女生徒らが、下草を踏まないよう一列になって石畳を歩く光景を目にするという。「踏まないで」と訴える立て札の効果もあるが、心のはやる春とは違い、紅葉の秋は、人を優しい気持ちにするのではないか…と、天を仰いで思うこと。

京都・右京の高雄や梅ヶ畑から梯子や鞍掛を売りに来る女性のこと。「梯子に鞍掛いらんかえー」と呼び売りしながら京都市内を歩いた。「畑のおばさん」の意味から。京都ではかつてオバをアバと呼ぶことが多かった。頭の上に「輪」と称する布製の敷物を置き、その上に梯子や鞍掛をのせていた。そうした風景は、今では見つけにくい時代になった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(93)
紅葉の季節に思うこと

大木になるケヤキだが、葉は小ぶり。並木道や公園ではらはらと落ちカサコソと舞う。その様子を見ていると、澄んだ空気の流れがよく分かる。手入れされたカエデの名所だけでなく、街中が紅葉、黄葉、落葉のころとなった。

秋風の吹きにし日より音羽山峰のこずゑも色づきにけり(紀貫之)。山はいうまでもなし。職場の窓から見渡せる山は、北の方角の左側から染まりだした。右からもえた春を思い出しては、興に入る。「哲学の道」の石畳沿いに植えた下草の養生のため、一部区間を立ち入り禁止になっていたが、それを解除するという。下草は、樹勢の衰えたサクラの根が踏まれて傷まないよう地面を覆う。とはいえ、錦秋のころまで養生していては無粋とされる。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
しかし昨年、サクラが咲く前に植えて開放したところ、踏まれてだめになった。天皇、皇后両陛下が近くの霊鑑寺を訪れて「京都はモミジがよろしいね」とされた。最近、修学旅行の女生徒らが、下草を踏まないよう一列になって石畳を歩く光景を目にするという。「踏まないで」と訴える立て札の効果もあるが、心のはやる春とは違い、紅葉の秋は、人を優しい気持ちにするのではないか…と、天を仰いで思うこと。

