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今京都 北政所茶会 2011/10/06 12:00 am
北政所茶会
豊臣秀吉の正室北政所(きたのまんどころ・高台院・ねね)は、夫の死後、徳川家康の援助を得て京都に高台寺を建立し、1624(寛永元)年9月6日、76歳で亡くなったという。「北政所茶会」は、この北政所の月命日10月6日に毎年高台寺で開かれる茶会である。参加費を払えば誰でもお点前をうけることができる。
高台寺には、島原の名妓二代目吉野太夫(1606-1643)にちなむ吉野窓をもつ遺方庵(いほうあん)という茶室がある。この縁で、2006(平成18)年より献茶式にあわせて豪華絢爛な衣裳をまとい、高下駄を履いた島原の太夫道中が催されるようになったという。

さて、島原であるが、本来は「嶋原」と書き、京都市下京区に位置する花街の名称である。正式名は西新屋敷といい、6つの町(上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)で構成されている。昭和後期にお茶屋、太夫、芸妓の人数が減り、ついにはお茶屋組合が解散して普通の住宅地と化した。残存していた多くの建物や門も、取り壊しなどで姿を消し、現在は「大門」、「輪違屋」、「角屋」がその面影をとどめているだけである。現在もお茶屋として営業を続けているのは輪違屋のみ。すでに揚屋としての営業は行っていないが、角屋は建築物としては今も日本に唯一残る揚屋造の遺構である。

輪違屋
2010年現在、太夫は花扇太夫、司太夫、如月太夫がおり、そのほか太夫道中や行事・イベント等に参加する「振袖太夫」(太夫の見習い、振袖の着物・打掛を着る)が、また元高砂太夫(櫛田一栄)のところには菊川太夫がおり、講演会等にて舞を披露している…という『きょうの京都』の今京都。

豊臣秀吉の正室北政所(きたのまんどころ・高台院・ねね)は、夫の死後、徳川家康の援助を得て京都に高台寺を建立し、1624(寛永元)年9月6日、76歳で亡くなったという。「北政所茶会」は、この北政所の月命日10月6日に毎年高台寺で開かれる茶会である。参加費を払えば誰でもお点前をうけることができる。
高台寺には、島原の名妓二代目吉野太夫(1606-1643)にちなむ吉野窓をもつ遺方庵(いほうあん)という茶室がある。この縁で、2006(平成18)年より献茶式にあわせて豪華絢爛な衣裳をまとい、高下駄を履いた島原の太夫道中が催されるようになったという。

さて、島原であるが、本来は「嶋原」と書き、京都市下京区に位置する花街の名称である。正式名は西新屋敷といい、6つの町(上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)で構成されている。昭和後期にお茶屋、太夫、芸妓の人数が減り、ついにはお茶屋組合が解散して普通の住宅地と化した。残存していた多くの建物や門も、取り壊しなどで姿を消し、現在は「大門」、「輪違屋」、「角屋」がその面影をとどめているだけである。現在もお茶屋として営業を続けているのは輪違屋のみ。すでに揚屋としての営業は行っていないが、角屋は建築物としては今も日本に唯一残る揚屋造の遺構である。

輪違屋
2010年現在、太夫は花扇太夫、司太夫、如月太夫がおり、そのほか太夫道中や行事・イベント等に参加する「振袖太夫」(太夫の見習い、振袖の着物・打掛を着る)が、また元高砂太夫(櫛田一栄)のところには菊川太夫がおり、講演会等にて舞を披露している…という『きょうの京都』の今京都。


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今京都 達磨忌 2011/10/05 12:00 am
達磨忌
開運や祈願成就の縁起物としてダルマは親しみ深い。モデルとなった禅宗の始祖達磨は、5世紀ころ南インド香至国の第三王子に生まれ、出家してインドから中国に渡り、梁の武帝と問答したり、崇山少林寺に入って9年間の面壁座禅ののち悟りを開いたという。この座禅姿がダルマとなった。生没年は不詳とのことだが、なくなったときは150歳くらいだったという言い伝えもある。

達磨の教えは弟子の慧可(えか・487-593)に継承され、日本へは平安時代初期の最澄、空海といった入唐した僧たちによって達磨宗として伝えられた。今日は達磨忌で、妙心寺をはじめ禅寺で法要がおこなわれる。
「ダルマさんダルマさん、にらめっこしましょ、笑ったら負けよ、あっぷぷ」 今どきの子どもはこの遊びをするのだろうか。ちょっぴり「にらめっこ」という遊びが懐かしい…という『きょうの京都』の今京都。

開運や祈願成就の縁起物としてダルマは親しみ深い。モデルとなった禅宗の始祖達磨は、5世紀ころ南インド香至国の第三王子に生まれ、出家してインドから中国に渡り、梁の武帝と問答したり、崇山少林寺に入って9年間の面壁座禅ののち悟りを開いたという。この座禅姿がダルマとなった。生没年は不詳とのことだが、なくなったときは150歳くらいだったという言い伝えもある。

達磨の教えは弟子の慧可(えか・487-593)に継承され、日本へは平安時代初期の最澄、空海といった入唐した僧たちによって達磨宗として伝えられた。今日は達磨忌で、妙心寺をはじめ禅寺で法要がおこなわれる。
「ダルマさんダルマさん、にらめっこしましょ、笑ったら負けよ、あっぷぷ」 今どきの子どもはこの遊びをするのだろうか。ちょっぴり「にらめっこ」という遊びが懐かしい…という『きょうの京都』の今京都。


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今京都 京都学生祭典 2011/10/04 12:00 am
京都学生祭典
今年はいつなんだろう? 京都学生祭典。
学生の手で京都をもっと元気にしようと2003(平成15)年からはじまった「京都学生祭典」は10月の上旬に2日間開催される。京都内外の大学や専門学校など約60校、約500人が実行委員会に参加し、2日間で20万人以上の観客を動員している。京都駅前広場や、烏丸御池を下がったところにある新風館、岡崎グランドなどが会場となり、グランドフィナーレは平安神宮で行われる。

この祭り、立ち上げ時に少しかかわりをもっていた。知り合いの学生からステージデザインやライティングなど個人的に相談を受けていた。この時期、各大学や学校では学園祭や文化祭の準備で忙しいはず。大学や学校を飛び越えて、学生・生徒という共通した立場で物事に取り組むという考えや姿勢が好きだ。大人社会は、地球規模とかいう言葉を使って何かをしようとしているが、実体は群雄割拠になりがちである。しかし、彼・彼女ら学生たちはひとつになって京都を盛り上げようとし、実際に盛り上げている。「最近の若いもんは・・・」と非難めいたセリフはいつの時代でもあるが、いやいや、「最近の若いもんは、行動力がありまっせ」と訴えたい。彼・彼女らの姿に教えられることが多いのではないか…という『きょうの京都』の今京都。

今年はいつなんだろう? 京都学生祭典。
学生の手で京都をもっと元気にしようと2003(平成15)年からはじまった「京都学生祭典」は10月の上旬に2日間開催される。京都内外の大学や専門学校など約60校、約500人が実行委員会に参加し、2日間で20万人以上の観客を動員している。京都駅前広場や、烏丸御池を下がったところにある新風館、岡崎グランドなどが会場となり、グランドフィナーレは平安神宮で行われる。

この祭り、立ち上げ時に少しかかわりをもっていた。知り合いの学生からステージデザインやライティングなど個人的に相談を受けていた。この時期、各大学や学校では学園祭や文化祭の準備で忙しいはず。大学や学校を飛び越えて、学生・生徒という共通した立場で物事に取り組むという考えや姿勢が好きだ。大人社会は、地球規模とかいう言葉を使って何かをしようとしているが、実体は群雄割拠になりがちである。しかし、彼・彼女ら学生たちはひとつになって京都を盛り上げようとし、実際に盛り上げている。「最近の若いもんは・・・」と非難めいたセリフはいつの時代でもあるが、いやいや、「最近の若いもんは、行動力がありまっせ」と訴えたい。彼・彼女らの姿に教えられることが多いのではないか…という『きょうの京都』の今京都。


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今京都 中秋の名月 2011/10/03 12:00 am
中秋の名月
と、言っても今日は中秋の名月ではない。今年はもう終わっている。京都では、中秋の名月にちなんだ催し物が多いというお話。
旧暦では、春夏秋冬をそれぞれ初・中・晩の三つの月にわける。旧暦の秋は7・8.9月で、8月は真ん中の月なので「中秋」となる。また、旧暦は太陰暦のため日付は月齢に対応し、15日は満月となる。それにより旧暦8月15日夜の月は「中(仲)秋の名月」と呼ばれ、古くから観月の宴などが催された。
下鴨神社の「名月宴弦祭」、上賀茂神社の「賀茂観月祭」、北野天満宮の「芋名月」、平野神社の「名月祭」、大覚寺の「観月の夕べ」など、さまざまな寺社で、月を愛で、管弦や舞、茶会を楽しむことができる。

「月々に月見る月は多けれど、月見る月はこの月の月」 この歌はもともと中秋の名月(陰暦の8月15日)に、宮中で女官たちによって詠われたもの。歌の作者は知り得ないが、お芋に箸で穴を開け、その穴から月をのぞいてこの歌を詠むといった「しきたり」が、その昔あったようだ。
澄み渡る秋の夜空に、ぽっかりと月が浮かんでいるのを見ると、子どもの頃を思い出す。ある月夜に祖母と歩いていた。どれだけ歩いても月がついて来るように見える。少し怖くなって、「お月さんがどこまでもついて来るよ」と言ったら、「暗い夜道を少しでも歩きやすいようにしてくれているのさ。優しいお月さんだねぇ」と祖母。その言葉で月夜が怖くなくなった。今から思えば、その祖母の言葉は「優しさって、さり気なくこうするもんだよ」と教えていたのかも…という『きょうの京都』の今京都。

と、言っても今日は中秋の名月ではない。今年はもう終わっている。京都では、中秋の名月にちなんだ催し物が多いというお話。
旧暦では、春夏秋冬をそれぞれ初・中・晩の三つの月にわける。旧暦の秋は7・8.9月で、8月は真ん中の月なので「中秋」となる。また、旧暦は太陰暦のため日付は月齢に対応し、15日は満月となる。それにより旧暦8月15日夜の月は「中(仲)秋の名月」と呼ばれ、古くから観月の宴などが催された。
下鴨神社の「名月宴弦祭」、上賀茂神社の「賀茂観月祭」、北野天満宮の「芋名月」、平野神社の「名月祭」、大覚寺の「観月の夕べ」など、さまざまな寺社で、月を愛で、管弦や舞、茶会を楽しむことができる。

「月々に月見る月は多けれど、月見る月はこの月の月」 この歌はもともと中秋の名月(陰暦の8月15日)に、宮中で女官たちによって詠われたもの。歌の作者は知り得ないが、お芋に箸で穴を開け、その穴から月をのぞいてこの歌を詠むといった「しきたり」が、その昔あったようだ。
澄み渡る秋の夜空に、ぽっかりと月が浮かんでいるのを見ると、子どもの頃を思い出す。ある月夜に祖母と歩いていた。どれだけ歩いても月がついて来るように見える。少し怖くなって、「お月さんがどこまでもついて来るよ」と言ったら、「暗い夜道を少しでも歩きやすいようにしてくれているのさ。優しいお月さんだねぇ」と祖母。その言葉で月夜が怖くなくなった。今から思えば、その祖母の言葉は「優しさって、さり気なくこうするもんだよ」と教えていたのかも…という『きょうの京都』の今京都。


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今京都 宇治茶まつり 2011/10/02 12:00 am
宇治茶まつり
中国宋より茶種を日本にもたらした栄西(えいさい)、その種から宇治に茶園をひらいた明恵(みょうえ)、そして茶道を大成させた千利休。この三人を日本の茶文化の大恩人としてしのぶとともに、宇治茶の発展を祈る「宇治茶まつり」は、10月の第一日曜日におこなわれる。

豊臣秀吉が宇治川の水で茶会を開いたことにちなみ、宇治橋三の間でシュロ縄に吊した釣瓶(つるべ)で「名水汲み上げの儀」ののち、近くの興聖寺で、茶壷に入れて仏前に供えられていた今年の新茶の「茶壺口切の儀」がいとなまれる。その後、興聖寺山門前の茶筅塚(ちゃせんづか)で茶筅供養がおこなわれる。
さて、この宇治茶、京都では有名だが、地方に行くとハエの幼虫である蛆(うじ)と勘違いされるらしい。高級な宇治茶を贈呈したつもりが、受け取った側は蛆茶と間違い捨ててしまったという話を聞くくらいだ。最近、色々な茶が出ているが、さすがに蛆茶はなかろうに…という『きょうの京都』の今京都。

中国宋より茶種を日本にもたらした栄西(えいさい)、その種から宇治に茶園をひらいた明恵(みょうえ)、そして茶道を大成させた千利休。この三人を日本の茶文化の大恩人としてしのぶとともに、宇治茶の発展を祈る「宇治茶まつり」は、10月の第一日曜日におこなわれる。

豊臣秀吉が宇治川の水で茶会を開いたことにちなみ、宇治橋三の間でシュロ縄に吊した釣瓶(つるべ)で「名水汲み上げの儀」ののち、近くの興聖寺で、茶壷に入れて仏前に供えられていた今年の新茶の「茶壺口切の儀」がいとなまれる。その後、興聖寺山門前の茶筅塚(ちゃせんづか)で茶筅供養がおこなわれる。
さて、この宇治茶、京都では有名だが、地方に行くとハエの幼虫である蛆(うじ)と勘違いされるらしい。高級な宇治茶を贈呈したつもりが、受け取った側は蛆茶と間違い捨ててしまったという話を聞くくらいだ。最近、色々な茶が出ているが、さすがに蛆茶はなかろうに…という『きょうの京都』の今京都。

