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rrbのブログ - 2016/04のエントリ

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天を仰いで思うこと 自分にとって写真とは 2016/04/15 12:00 am

カメラを手にし撮影に臨む時、それは撮影したい写真を頭の中でイメージすることから始まる…そして、思い描いたイメージをカメラに託し撮影する…カメラは信頼できる相棒であり、信頼できる道具でなければならない…思い描いたイメージを、写真にする…それは、時として思い通りにいかず困難な時もある…そんな緊張の中で、カメラは静かに撮影者の意思決定を待ち、いざ撮影になると撮影者の期待に全力で答える

これは、『LEICA STYLE MAGAZINE』に掲載されていたものだ。その通りだと思う。どんなカメラで撮ったとしても、撮る作業工程は変わらない。もし違いがあるとすれば、写真または写真を撮るという行為に対する思いではないだろうか。

一眼レフに超望遠レンズをセットし、スズメさんを撮るときも、レンジファインダーカメラで町撮りをするときも、写真や写真を撮るという行為に対する思いの違いはないと自負している。スズメさんを撮るときのほうが、戦闘態勢に近い燃えかたをしているかもしれない。

他人(ひと)から「カメラが好きなのか、写真が好きなのか」と聞かれることがある。これまでは答えに窮することもあったが、「カメラは信頼できる相棒であり、信頼できる道具でなければならない」という言葉がありがたい存在だ。信頼できる相棒・道具として、どのメーカーのどのモデルのカメラを選んだかということに尽きる。その選んだカメラ(機材)は、当然、好きだ。そして、「思い描いたイメージ」通りに撮れていれば、このうえない喜びを感じる。

つまり、自分は、「撮影したい写真を頭の中でイメージし、思い描いたイメージで撮れるまで追い続ける」ということだ。スズメさんのホバリングはまだ撮れていないが…と、天を仰いで思うこと。

イメージ通りに撮れるまで粘り、妥協を許さないよなぁ…他人の写真には寛大やのに…

熊本で発生した地震、
何もできない自分がとてもとても歯がゆいですが、
心よりお見舞い申しあげます。
阪神、東日本のときと同じように、自分なりの支援をしていきます。

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今京都 手紙の定型句として 2016/04/14 12:00 am

最近はメールやLINEの普及で手紙を書くことが随分と少なくなった。そこで略式の「和の手紙」について触れておこう。ポイントは、「拝啓」「謹啓」といった冒頭の言葉を省き、代わりに短めの「季節の言葉」を置くことである。

春、夏、秋、冬のうち一つを選び、その季節について(1)まだ新鮮に感じている、(2)慣れてきた、(3)深まりを感じている、(4)心はもう次の季節へ向いている、という主観的な判断をする。

たとえば春。(1)まだ新鮮に感じている、ならば「日ましに春めくこのごろ」となる。(2)慣れてきた、と思ったならば、「夏も早たけなわ」となる。(3)深まりを感じている、は、秋がいいかもしれない。「秋まさにたけなわ」となる。(4)心はもう次の季節へ向いている、というのは冬から春がそうだろう。「此処彼処(ここかしこ)に春の兆しが覗くこのごろ」となる。この文は「其処此処(そこここ)」や「垣間見る」をもちいて、「其処此処に春の兆しを垣間見るこのごろ」としてもかまわない。

この使い方はお洒落で上品である。メールなどでも使いたい…ということで、どうも、おやかまっさんどした。


《京都・上七軒》

きょうの大和言葉はいいねぇ、お洒落だね、上品だね

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今京都 かわいい絵馬 2016/04/13 12:00 am

昨日の「安井神社」の続きとなるが、おぞましい絵馬ばかりではない。かわいらしい内容のものもある。安井神社は半日から1日かけて、じっくりと散策したい場所だ…という今京都。


《京都・安井神社》

絵馬にある「二人とも素敵な王子様と…」の願い、叶うといいね

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今京都 安井金比羅宮(安井神社) 2016/04/12 12:00 am

第38代天智天皇(てんちてんのう)の御代(668〜671年)に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が一堂を創建し、紫色の藤を植え藤寺と号して、家門の隆昌と子孫の長久を祈ったことに始まる安井金比羅宮は「安井のこんぴらさん」で知られる。明治維新の後、「安井神社」と改称し、更に「安井金比羅宮」と改め現在に至っている。
主祭神は、かの「日本三大怨霊」とも呼ばれた崇徳天皇。保元の乱で讃岐に流された崇徳天皇が、讃岐の金刀比羅宮で一切の欲を断ち切って参籠(おこもり)されたことから、ここは古来より断ち物の祈願所として信仰されてきた。戦によって心ならずも寵妃阿波内侍とお別れにならざるを得なかった崇徳上皇は、人々が自分のような悲しい境遇にあわぬよう、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶切ってくれるというもの。

しかし、不倫相手の男性とその妻との縁を壊したい女や、嫌いな相手を陥れたい人など、憎い相手を不幸にしたい、ドロっとした人々が全国から集まる。参拝者の多くは、「縁切り縁結び碑(いし)」が目当てだ。碑には、「○○と縁を切りたい」などの願い事が書かれた「形代(かたしろ)」という身代わりのお札が一面にビッシリ貼られている。まず切りたい縁・結びたい縁などの願い事を書いた「形代」を持って願い事を念じながら碑の表から裏へ穴をくぐり、悪縁を切る。次に裏から表へくぐって良縁を結ぶ。最後に「形代」を碑に貼り、縁切り・縁結びのお願いが完了となる。

「○○の彼女の××が、○○と同棲を解消し、事故や病気で死んでくれますように」
「○○が会社をクビになり、一生苦しむように」
「息子と○○との婚約が破談になりますように」
「おかあさんが今つきあっている男の人とはやく別れますように」
などなど、背筋が凍るような怨念がたっぷり詰まった絵馬が多い。

本来は、「あらゆる悪い縁を切り、良縁を結ぶ」ご利益である。良縁に結ばれた夫婦やカップルがお参りしても縁が切れることはない。むしろ、更に、より深く、より強く結ばれる御利益をいただけるとのことだ。男女の縁はもちろん、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切って良縁に結ばれようというもの。

しかし、絵馬には、日頃の不満や恨み辛みを書いたものから、特定の相手の不幸を願うものまで、実名で書かれており、かなりの数の怨念が渦巻いている…という今京都。








《京都・安井神社》

絵馬をじっくり読むのが恐い! もし自分の名前が書かれていたら…ゾゾッ!

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おやかまっさん 厄介な大人が誕生する経緯 2016/04/11 12:00 am

なんでも思い通りになると感じていたものが、どうも思い通りにならないものらしいとわかり始めるのは何歳くらいか?ふつうは、幼児期の後半から、遅くても小学校に入学する前後には、「どうも世の中は期待通りに動くとは限らない」とだんだん判明してくる。天気になるはずの遠足の日が雨になったり、大好きな先生が転勤で、あまり好きではない先生が担任になったり…。

この思うようにならないストレスを、親に対してぶつける「反抗期」ってやつは、ふつうは14〜17歳の頃だ。小学校の前後に感じるのは、大人の社会に対する複雑な思いではなく、思い通りにいかない苛立ちや自分自身への苛立ちである。

「全能」だと感じていた自分に、じつは「限界」があることを知る。親の助けがあったからできた、助けがないと自分だけではできない。その当たり前のことに気づく、とまどいもある。

自分にはできない。でも周囲には、それをうまくやっているヤツがいる。自分が病気で休んでも、クラスのみんなは遠足に行ってしまう。
直前.にケガをして走れなくても、運動会は滞りなく行われる。こうした体験を重ねて、「どうやら世界は自分を中心にまわっているのではない」ことを発見する。こういう葛藤を経て、人は大人になっていくのである。

大人のなかには、そんな葛藤を経験せずに大人になった人もいる。また、経験しているのに現在の立場におぼれてしまう人もいる。周囲の迷惑を顧みず、「世界の中心は自分」という人だ。

バブル時代に「自分の気持ち至上主義」とも呼べるライフスタイルがあった。自分にあうと思われるものを、買わせるためでもあった。多くの日本人が、この風潮に酔ってしまったのである。

「自分がいちばんカワイイ」から電車の中で化粧するのも平気。「自分の気持ちをいちばんに考える生き方がステキ」だから、子どもをクルマに放ったまま、パチンコをするのもOK。

「自分の気持ち至上主義」で生きた世代や育てられた世代が、そのまま子育て世代になれどうなるか、想像に難くない。
次のようなモンスターペアレンツが現れることもある。

「頼んだわけではないのだから、学校の給食で『いただきます』を言わせるな」
「卒業アルバムに、うちの子どもの写真が少ない、撮りなおせ」

つまり「自分の気持ち至上主義」が「自分の子ども至上主義」につながる。

こうして厄介な大人たちが誕生していくのである…ということで、どうも、おやかまっさんどした。


《神戸》

自由には責任がともない、権利にも義務がともなう、を忘れたらあんということや

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