rrbのブログ - 2009/11/24のエントリ
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今京都 べんちゃら 2009/11/24 12:00 am
べんちゃら
お世辞。口先だけでうまく言い、誠実でないこと。「あいつはベンチャラ使うので、信用ならんわ」「オベンチャラ言うてんのか」とオを付けると、相手にいくらか親愛感をもつ。ベンは弁の意味で、弁舌巧みなチャラということ。チャラは擬態語で、デタラメ、冗談の意。うそだったことにするから、帳消しの意味になった。「こんだけ返すさかいチャラにしといてんか」と。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
恋塚/浄禅寺・恋塚寺 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月9日掲載)
浄瑠璃「鳥羽恋塚物語」(近松門左衛門)、小説「袈裟と盛遠」(芥川龍之介)、映画「地獄門」(黒澤明)などでも取り上げられたことがある袈裟御前(けさごぜん)の物語。袈裟の骨を納めた「恋塚」が、京都市南部の鴨川をはさむ上鳥羽と下鳥羽にある二つのお寺に伝えられている。


お寺は、それぞれ国道1号の西の旧道に面している。歴史愛好家や物語を演じる役者、小説などで袈裟御前を知った観光客たちが訪れ「恋塚」の前で静かに手をあわせるという。

上鳥羽の恋塚は「六地蔵めぐり」の鳥羽地蔵で知られる浄禅寺にある。通りに面して、袈裟にちなむ「激揚貞風」の大きな石碑が立つ。その奥で、五輪塔と風雨をさけるためにガラスケースに入れられた石碑が木々に囲まれている。浄禅寺は寺伝より1182(寿永元)年に文覚が開いたとされる。冥土から帰った小野篁が刻んだという6体の地蔵の1体が地蔵堂に納められている。

下鳥羽の「恋塚」は恋塚寺にある。このお寺は「1144(天養元)年に文覚が開いた」と縁起石碑に記されている。かやぶきの山門を入ると正面に本堂があり、そこには文覚、袈裟、渡の木像が置かれていると聞く。境内には「恋塚」や石碑があり、今でも「袈裟御前の心」を伝えている。平安時代末期、母への「孝」と夫への「義」、それぞれを貫くため己の命を犠牲にした女性、袈裟御前(けさごぜん)の物語は、「源平盛衰記」(鎌倉時代)など、時を超えて人々の心を引きつけてきた。鳥羽の若い武士・遠藤盛遠は、渡辺渡の妻袈裟に横恋慕し、袈裟の母衣川に袈裟との密会を求める。袈裟は母も夫も裏切ることはできず、「濡れた髪を探って殺したまえ」と盛遠を騙して夜討ちに招き入れ、自らが濡れた髪で首をはねられる。盛遠は自らの罪業を悔い、出家して文覚となって全国を回る。神護寺の再興に奔走し、伊豆で出会った頼朝に挙兵をうながす。

袈裟御前の物語は古くから庶民に親しまれていて、江戸時代から寺を訪れる人も多く、絵地図にも記されている。明治の文人たちは袈裟を『貞女の鑑(かがみ)』として寺で句会や歌会もしたという。下鳥羽の恋塚寺の「恋塚」の塔は、文覚が眠る高雄を向いているという。鳥羽伏見の戦(1868年)で焼失した寺を再建する際、地域の人々が北西に向けたということだ。

「こいづかさん」と呼ばれるほど、地域の人たちから塚は大切にされている。袈裟が身をもって示した決して変えてはいけない心。文覚の生涯からわかる「やり直す」ことの大切さ。それぞれの生き方に時代を超えて訴えるものがあるように感じた…今京都。

お世辞。口先だけでうまく言い、誠実でないこと。「あいつはベンチャラ使うので、信用ならんわ」「オベンチャラ言うてんのか」とオを付けると、相手にいくらか親愛感をもつ。ベンは弁の意味で、弁舌巧みなチャラということ。チャラは擬態語で、デタラメ、冗談の意。うそだったことにするから、帳消しの意味になった。「こんだけ返すさかいチャラにしといてんか」と。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
恋塚/浄禅寺・恋塚寺 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月9日掲載)
浄瑠璃「鳥羽恋塚物語」(近松門左衛門)、小説「袈裟と盛遠」(芥川龍之介)、映画「地獄門」(黒澤明)などでも取り上げられたことがある袈裟御前(けさごぜん)の物語。袈裟の骨を納めた「恋塚」が、京都市南部の鴨川をはさむ上鳥羽と下鳥羽にある二つのお寺に伝えられている。


お寺は、それぞれ国道1号の西の旧道に面している。歴史愛好家や物語を演じる役者、小説などで袈裟御前を知った観光客たちが訪れ「恋塚」の前で静かに手をあわせるという。

上鳥羽の恋塚は「六地蔵めぐり」の鳥羽地蔵で知られる浄禅寺にある。通りに面して、袈裟にちなむ「激揚貞風」の大きな石碑が立つ。その奥で、五輪塔と風雨をさけるためにガラスケースに入れられた石碑が木々に囲まれている。浄禅寺は寺伝より1182(寿永元)年に文覚が開いたとされる。冥土から帰った小野篁が刻んだという6体の地蔵の1体が地蔵堂に納められている。

下鳥羽の「恋塚」は恋塚寺にある。このお寺は「1144(天養元)年に文覚が開いた」と縁起石碑に記されている。かやぶきの山門を入ると正面に本堂があり、そこには文覚、袈裟、渡の木像が置かれていると聞く。境内には「恋塚」や石碑があり、今でも「袈裟御前の心」を伝えている。平安時代末期、母への「孝」と夫への「義」、それぞれを貫くため己の命を犠牲にした女性、袈裟御前(けさごぜん)の物語は、「源平盛衰記」(鎌倉時代)など、時を超えて人々の心を引きつけてきた。鳥羽の若い武士・遠藤盛遠は、渡辺渡の妻袈裟に横恋慕し、袈裟の母衣川に袈裟との密会を求める。袈裟は母も夫も裏切ることはできず、「濡れた髪を探って殺したまえ」と盛遠を騙して夜討ちに招き入れ、自らが濡れた髪で首をはねられる。盛遠は自らの罪業を悔い、出家して文覚となって全国を回る。神護寺の再興に奔走し、伊豆で出会った頼朝に挙兵をうながす。

袈裟御前の物語は古くから庶民に親しまれていて、江戸時代から寺を訪れる人も多く、絵地図にも記されている。明治の文人たちは袈裟を『貞女の鑑(かがみ)』として寺で句会や歌会もしたという。下鳥羽の恋塚寺の「恋塚」の塔は、文覚が眠る高雄を向いているという。鳥羽伏見の戦(1868年)で焼失した寺を再建する際、地域の人々が北西に向けたということだ。

「こいづかさん」と呼ばれるほど、地域の人たちから塚は大切にされている。袈裟が身をもって示した決して変えてはいけない心。文覚の生涯からわかる「やり直す」ことの大切さ。それぞれの生き方に時代を超えて訴えるものがあるように感じた…今京都。

