rrbのブログ - 2009/10/10のエントリ
ヘッダーナビゲーション
現在のカテゴリー位置
サイト全体のカテゴリーナビゲーション
今京都 さぎしらず 2009/10/10 12:00 am
さぎしらず
鷺知らずは、ゴリなどの小魚をいう。ゴリのつくだ煮やイサザのあめ煮も呼ぶ。鷺もみつけられないほど小さい魚ということから名づけられた。小さいことをコマコイというが、コマコイ魚である。明治時代にできた「鉄道唱歌」の歌詞には、京都の名産品をならべた個所がある。「扇おしろい京都紅 また加茂川の鷺知らず」と歌われた。この名産の名前を復活させてみてはどうだろうか。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
伏見義民/御香宮神社 (旧フォトヴィレッジ 2007年9月22日掲載)
緑に包まれた京都市伏見区にある御香宮神社の築山に高さ約4mの白い石碑が立っている。石の表面には、江戸時代に命がけで町を救った七人の伏見義民(ふしみぎみん)をたたえる文が刻まれている。

「御訴訟でございます」1785(天明5)年、秋の江戸。下城途中の寺社奉行松平伯耆守を乗せたかごに、ふたりの男が駆け寄る。伏見の鍛冶職人文珠九助と、農業を営む丸屋九兵衛が差し出した訴状には、伏見奉行小堀政方の暴政が記されていた。当時、伏見は京都と大阪を結ぶ船の港があり、参勤交代の宿場町としても栄えた。幕府は政治、経済の要所として直轄の伏見奉行所を設けていた。

御香宮神社や氏子らでつくる伏見義民顕彰会などによると、小堀は幕府で権勢をふるった老中田沼意次の推挙を受けて着任したが、間もなく愛人らと酒におぼれる。その費用は増税や家の普請時に取り立てる御用金などで賄った。大飢饉の混乱も重なり、町衆は苦しめられた。

悪政に耐えかねた文珠ら伏見の町人七人は、処罰を覚悟で幕府への直訴を計画し実行。伯耆守の温情や権力争いの影響もあり小堀は罷免。しかし、直訴直後に病死した一人をのぞく六人が捕らわれ、四人は獄死、残る二人も江戸で取り調べ中に亡くなったとされる。

「直訴の成功は封建社会において衝撃的な事件だったはず。町民の誇りを示す出来事になった」と事件を物語風に記した「雨中之鑵子(うちゅうのかんす)」などの文献や義民の宿坊などゆかりの地も今に残る。「雨中之鑵子」は昭和初期の大恐慌時の混乱で散逸した。石碑は1887(明治20)年、義民の百年祭に合わせて伏見の有志らが建立。文は勝海舟、題字は三条実美が揮毫(きごう)したという。

碑は御香宮神社境内の南西にあり、門扉で閉ざされ近寄ることができない。碑に書かれた文字も見れなかったけれど、命がけで町を救った七人の伏見義民に触れることができた。18日には、顕彰会による恒例の慰霊祭が営まれ、義民たちを偲ぶという…今京都。

鷺知らずは、ゴリなどの小魚をいう。ゴリのつくだ煮やイサザのあめ煮も呼ぶ。鷺もみつけられないほど小さい魚ということから名づけられた。小さいことをコマコイというが、コマコイ魚である。明治時代にできた「鉄道唱歌」の歌詞には、京都の名産品をならべた個所がある。「扇おしろい京都紅 また加茂川の鷺知らず」と歌われた。この名産の名前を復活させてみてはどうだろうか。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
伏見義民/御香宮神社 (旧フォトヴィレッジ 2007年9月22日掲載)
緑に包まれた京都市伏見区にある御香宮神社の築山に高さ約4mの白い石碑が立っている。石の表面には、江戸時代に命がけで町を救った七人の伏見義民(ふしみぎみん)をたたえる文が刻まれている。

「御訴訟でございます」1785(天明5)年、秋の江戸。下城途中の寺社奉行松平伯耆守を乗せたかごに、ふたりの男が駆け寄る。伏見の鍛冶職人文珠九助と、農業を営む丸屋九兵衛が差し出した訴状には、伏見奉行小堀政方の暴政が記されていた。当時、伏見は京都と大阪を結ぶ船の港があり、参勤交代の宿場町としても栄えた。幕府は政治、経済の要所として直轄の伏見奉行所を設けていた。

御香宮神社や氏子らでつくる伏見義民顕彰会などによると、小堀は幕府で権勢をふるった老中田沼意次の推挙を受けて着任したが、間もなく愛人らと酒におぼれる。その費用は増税や家の普請時に取り立てる御用金などで賄った。大飢饉の混乱も重なり、町衆は苦しめられた。

悪政に耐えかねた文珠ら伏見の町人七人は、処罰を覚悟で幕府への直訴を計画し実行。伯耆守の温情や権力争いの影響もあり小堀は罷免。しかし、直訴直後に病死した一人をのぞく六人が捕らわれ、四人は獄死、残る二人も江戸で取り調べ中に亡くなったとされる。

「直訴の成功は封建社会において衝撃的な事件だったはず。町民の誇りを示す出来事になった」と事件を物語風に記した「雨中之鑵子(うちゅうのかんす)」などの文献や義民の宿坊などゆかりの地も今に残る。「雨中之鑵子」は昭和初期の大恐慌時の混乱で散逸した。石碑は1887(明治20)年、義民の百年祭に合わせて伏見の有志らが建立。文は勝海舟、題字は三条実美が揮毫(きごう)したという。

碑は御香宮神社境内の南西にあり、門扉で閉ざされ近寄ることができない。碑に書かれた文字も見れなかったけれど、命がけで町を救った七人の伏見義民に触れることができた。18日には、顕彰会による恒例の慰霊祭が営まれ、義民たちを偲ぶという…今京都。

