rrbのブログ - 2009/03/07のエントリ
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今京都 赤裸裸 2009/03/07 12:00 am
せきらら…包み隠しのないこと。ありのまま。
◇ちょっと予備知識 → 「赤」は、裸、むき出しのこと。何もみにつけていない丸裸ということから。
類義語に露骨(ろこつ)・暴露(ばくろ)・裸出(らしゅつ)がある。
対義語は隠蔽(いんぺい)・婉曲(えんきょく)。
里の秋(童謡物語第2弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年10月12日掲載)
「里の秋」
作詞:斉藤信夫 作曲:海沼 実
静かな 静かな 里の秋 お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただふたり 栗の実煮てます いろりばた
あかるい あかるい 星の空 鳴き鳴き夜鴨の わたる夜は
ああ父さんの あの笑顔 栗の実食べては 思い出す
さよなら さよなら 椰子の島 おふねにゆられて 帰られる
ああ父さんよ ごぶじでと 今夜も母さんと 祈ります
この「里の秋」、最初は故郷を思い出す秋の景色の童謡として作られたのではなく、背景には第二次世界大戦の暗く悲しいドラマが潜んでいる。この歌がはじめて放送で発表されたのは戦争が終わった年の1945(昭和20)年の12月24日。この日の午後1時、南方で戦っていた兵士の引き揚げ第一便が浦賀港に入港することを祝してNHKが特別番組を放送するという中での一回きりの放送だけに作られた。

1945(昭和20)年8月15日、敗戦。日本人は希望も夢も、そして食べるものもなく、焦土に立ちすくむ。9日前には広島に、6日前には長崎に原子爆弾が落とされ多くの尊い命が一瞬にしてはかなく消えた。そんな中で兵士の引き揚げ船が日本に着くというニュースは忘れかけていたひとつの明るさの象徴だった。大勢の出迎えの人々が浦賀港の埠頭をうめつくし、この感動の場面の放送の中で歌われた。

戦地から運良く帰ってきた人たち、船がつくたび迎えに行っても帰らぬ人たち…。
♪ おふねにゆられて 帰られる …
その頃はまだ、戦地から父や夫、兄弟、息子たちが帰っていない家族がたくさんいた。その中には結婚を約束した恋人を待つ人もいた。
♪ ああ父さんの あの笑顔 栗の実食べては 思い出す …
人々は、それぞれの境遇に照らし合わせながら、この歌を聞きおのおの涙を流した。そこは悲しみと喜び両方のドラマがいつも生まれたに違いない。童謡「里の秋」にはこういう背景があったといわれている。

この説が正しいかどうかはわからない。けれど、夫の戦死の報が届いて、やむなく他の人と結婚した後に夫が帰り着いたという例、父も母も身寄りも亡くした子が人身売買された例、食べる物すらなく代わりに自分の身体を売る夜の女に変貌していった人の例。これらは事実であり、その事実は全て戦争が生み出した悲劇といえる。
戦争は全てを狂わせ、全てを失わせる。戦争を知らない子供たちの世代になっても、こんな悲しい童謡を二度とふたたび、子供たちに歌わせないためにも、戦争がいかに無意味でつまらないものかを決して忘れてはいけないと思う。しかし、世界のどこかで今でも争いは絶えていない…今京都。 ※写真は京都府南丹市美山町の「茅葺きの里」(2007年撮影)で本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第1弾「七つの子」はここ(←クリック)

◇ちょっと予備知識 → 「赤」は、裸、むき出しのこと。何もみにつけていない丸裸ということから。
類義語に露骨(ろこつ)・暴露(ばくろ)・裸出(らしゅつ)がある。
対義語は隠蔽(いんぺい)・婉曲(えんきょく)。
里の秋(童謡物語第2弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年10月12日掲載)
「里の秋」
作詞:斉藤信夫 作曲:海沼 実
静かな 静かな 里の秋 お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただふたり 栗の実煮てます いろりばた
あかるい あかるい 星の空 鳴き鳴き夜鴨の わたる夜は
ああ父さんの あの笑顔 栗の実食べては 思い出す
さよなら さよなら 椰子の島 おふねにゆられて 帰られる
ああ父さんよ ごぶじでと 今夜も母さんと 祈ります
この「里の秋」、最初は故郷を思い出す秋の景色の童謡として作られたのではなく、背景には第二次世界大戦の暗く悲しいドラマが潜んでいる。この歌がはじめて放送で発表されたのは戦争が終わった年の1945(昭和20)年の12月24日。この日の午後1時、南方で戦っていた兵士の引き揚げ第一便が浦賀港に入港することを祝してNHKが特別番組を放送するという中での一回きりの放送だけに作られた。

1945(昭和20)年8月15日、敗戦。日本人は希望も夢も、そして食べるものもなく、焦土に立ちすくむ。9日前には広島に、6日前には長崎に原子爆弾が落とされ多くの尊い命が一瞬にしてはかなく消えた。そんな中で兵士の引き揚げ船が日本に着くというニュースは忘れかけていたひとつの明るさの象徴だった。大勢の出迎えの人々が浦賀港の埠頭をうめつくし、この感動の場面の放送の中で歌われた。

戦地から運良く帰ってきた人たち、船がつくたび迎えに行っても帰らぬ人たち…。
♪ おふねにゆられて 帰られる …
その頃はまだ、戦地から父や夫、兄弟、息子たちが帰っていない家族がたくさんいた。その中には結婚を約束した恋人を待つ人もいた。
♪ ああ父さんの あの笑顔 栗の実食べては 思い出す …
人々は、それぞれの境遇に照らし合わせながら、この歌を聞きおのおの涙を流した。そこは悲しみと喜び両方のドラマがいつも生まれたに違いない。童謡「里の秋」にはこういう背景があったといわれている。

この説が正しいかどうかはわからない。けれど、夫の戦死の報が届いて、やむなく他の人と結婚した後に夫が帰り着いたという例、父も母も身寄りも亡くした子が人身売買された例、食べる物すらなく代わりに自分の身体を売る夜の女に変貌していった人の例。これらは事実であり、その事実は全て戦争が生み出した悲劇といえる。
戦争は全てを狂わせ、全てを失わせる。戦争を知らない子供たちの世代になっても、こんな悲しい童謡を二度とふたたび、子供たちに歌わせないためにも、戦争がいかに無意味でつまらないものかを決して忘れてはいけないと思う。しかし、世界のどこかで今でも争いは絶えていない…今京都。 ※写真は京都府南丹市美山町の「茅葺きの里」(2007年撮影)で本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第1弾「七つの子」はここ(←クリック)

