rrbのブログ - 2008/08/29のエントリ
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今京都 五臓六腑 2008/08/29 12:00 am
ごぞうろっぷ…はらわた、内臓、転じて、からだ中、または心の中。
◇ちょっと予備知識 → もとは漢方の語で、5つの臓器と6つのはらわた。
「五臓」は心臓・肺臓・脾臓・肝臓・腎臓。
「六腑」は大腸・小腸・胃・胆・膀胱・三焦(消化・排泄を行う器官)のこと。
タイトルに使用している四字熟語が今回から3年めに突入。そろそろ終焉を迎えそうなのが辛い。次からのタイトルに頭を痛める今日この頃だわ。
愛宕(あたご)さん
あるデータによると京都は放火を別として、火事の少ないところだという。それは京都の住宅事情が大いに関係しているらしい。京都の町家は隣とくっついていることが通常であり、火事についての意識は大変高く、火を出してはいけないということに、昔から大変神経を使ってきたとのことだ。

念には念を入れて火の始末をするという京都人のしつこさで、町を火から守ってきた。それぞれの住人の責任感の強さがそうさせてきたのだろうが、京都人はこれを「愛宕さん(愛宕神社)のおかげどす」という。ここに京都の一種独特のことばづかいがあり、奥ゆかしさがあると感じる。

「愛宕さんのお札」は京都の家庭には、イヤ、家庭だけでなく、近代的なビルの中でも見かける。毎年7月31日の夜から8月にかけて、右京区の愛宕山山頂にある愛宕神社で千日詣というものがあり、この日にお詣りすれば千日分のご利益があるとされている。この日は町内単位でお詣りするところもあり、毎年大変な賑わいを見せている。

しかし、だからといって、お詣りした人だけが、このお札を貼っているわけではない。京都では、たとえ、愛宕さんがどこにあるかを知らない人でも、このお札のことは知っていて、誰かから貰うなどして台所に貼ってある。このへんがまた京都らしいところかもしれない。

「あなたのところに愛宕さんのお札ありますか?」
「はい、ありますよ」
「そのお札はん、なんて書いてるかご存知?」
「えっ、なんて書いてましたやろ、火が何とか、でしたやろか?」
と、お札に対してはこんな程度の認識なんだが、必ず各家にあるという代物だ。

愛宕さんにはまことに失礼なことなんだが、普段は全く気にとめていないし、ゆっくり眺めることもしなければ、手を合わせることもない。いわばこのお札は京都人にとって空気と同じような存在なのである。これほど自然にさりげなく、京都の人々の暮らしの中に溶け込んでいるお札というものも、他にはないように思う。
焚き火のあと、花火のあと、京都人の口から思わず出ることばがある。
「ひのようじん、火の用心、火迺要慎(ひのようじん)」、そんな京都の文化のお話…今京都。


◇ちょっと予備知識 → もとは漢方の語で、5つの臓器と6つのはらわた。
「五臓」は心臓・肺臓・脾臓・肝臓・腎臓。
「六腑」は大腸・小腸・胃・胆・膀胱・三焦(消化・排泄を行う器官)のこと。
タイトルに使用している四字熟語が今回から3年めに突入。そろそろ終焉を迎えそうなのが辛い。次からのタイトルに頭を痛める今日この頃だわ。
愛宕(あたご)さん
あるデータによると京都は放火を別として、火事の少ないところだという。それは京都の住宅事情が大いに関係しているらしい。京都の町家は隣とくっついていることが通常であり、火事についての意識は大変高く、火を出してはいけないということに、昔から大変神経を使ってきたとのことだ。

念には念を入れて火の始末をするという京都人のしつこさで、町を火から守ってきた。それぞれの住人の責任感の強さがそうさせてきたのだろうが、京都人はこれを「愛宕さん(愛宕神社)のおかげどす」という。ここに京都の一種独特のことばづかいがあり、奥ゆかしさがあると感じる。

「愛宕さんのお札」は京都の家庭には、イヤ、家庭だけでなく、近代的なビルの中でも見かける。毎年7月31日の夜から8月にかけて、右京区の愛宕山山頂にある愛宕神社で千日詣というものがあり、この日にお詣りすれば千日分のご利益があるとされている。この日は町内単位でお詣りするところもあり、毎年大変な賑わいを見せている。

しかし、だからといって、お詣りした人だけが、このお札を貼っているわけではない。京都では、たとえ、愛宕さんがどこにあるかを知らない人でも、このお札のことは知っていて、誰かから貰うなどして台所に貼ってある。このへんがまた京都らしいところかもしれない。

「あなたのところに愛宕さんのお札ありますか?」
「はい、ありますよ」
「そのお札はん、なんて書いてるかご存知?」
「えっ、なんて書いてましたやろ、火が何とか、でしたやろか?」
と、お札に対してはこんな程度の認識なんだが、必ず各家にあるという代物だ。

愛宕さんにはまことに失礼なことなんだが、普段は全く気にとめていないし、ゆっくり眺めることもしなければ、手を合わせることもない。いわばこのお札は京都人にとって空気と同じような存在なのである。これほど自然にさりげなく、京都の人々の暮らしの中に溶け込んでいるお札というものも、他にはないように思う。
焚き火のあと、花火のあと、京都人の口から思わず出ることばがある。
「ひのようじん、火の用心、火迺要慎(ひのようじん)」、そんな京都の文化のお話…今京都。



