rrbのブログ - 2008/08/09のエントリ
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今京都 冠婚葬祭 2008/08/09 2:28 am
かんこんそうさい…四大礼式で、元服(冠)・結婚(婚)・葬式(葬)・祖先の祭礼(祭)のこと。また慶弔の儀式のこと。
◇ちょっと予備知識 → 「冠婚」は「冠昏」、「葬祭」は「喪祭」とも書く。
ねてもさめても
古い用語に「窹寐(ごび)にも忘れず」という言い方があるそうだ。そしてその用語が、京都の北、周山街道への入口にある栂尾・高山寺に伝わる古往来(平安時代や鎌倉時代の手紙)に、既に見られるという。
「窹寐の大いなる嘆(ねてもさめても気にかかって心のわだかまりをなす種)」という表現である。
「寝ても醒めても」とは、普段何気なく使う言葉であるが、背景にはこんな古典の世界が広がっていた。

「窹寐(ごび)にも忘れず」、すなわち「寐(ね)ても窹(さめ)ても忘れない」。
現代の日本語なら「寝ても覚めても」と書きそうなところであるが、元の漢字は「寐ても窹ても」。
「寐る」と「窹る」が巧みにワンセットになった漢字づかいで、このほうが表現としてはるかに美しい。漢字のもつ意味が雰囲気としてよく出ている。

「寐ても窹ても」という本来の漢字表現を守り通していると、日常に使用する漢字が際限なく広がる。そこで1923(大正12)年にはじめて、常用漢字が設定された。それは日常の不便を解消するための、ひとつの枠組みに過ぎなかったはず。

しかし、現代人はいつのまにか、その枠組みの中だけですっかり満足して暮らしている。それは殆ど「井の中の蛙」状態で、その外側に、実は豊かな大海がある。
ことば談義は、往々にして文字の意義に及んでしまう。常用漢字には、それなりの使命もあり、それなりの効用もあるのは認めなければならないけれど、その外側に広がっていた、日本語の過去の広大な眺めを省みることは、人の心にとって、全くの無用であるわけではないと思う。

「ねてもさめても」この言葉は、日本語の奥深さを感じさせる言葉かもしれない。栂尾・高山寺といえば紅葉の名所と鳥獣戯画だが、意外にも「ねてもさめても」の語源があったというお話vol.24…今京都。前回の語源は「へそくり」(←クリック)。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。


◇ちょっと予備知識 → 「冠婚」は「冠昏」、「葬祭」は「喪祭」とも書く。
ねてもさめても
古い用語に「窹寐(ごび)にも忘れず」という言い方があるそうだ。そしてその用語が、京都の北、周山街道への入口にある栂尾・高山寺に伝わる古往来(平安時代や鎌倉時代の手紙)に、既に見られるという。
「窹寐の大いなる嘆(ねてもさめても気にかかって心のわだかまりをなす種)」という表現である。
「寝ても醒めても」とは、普段何気なく使う言葉であるが、背景にはこんな古典の世界が広がっていた。

「窹寐(ごび)にも忘れず」、すなわち「寐(ね)ても窹(さめ)ても忘れない」。
現代の日本語なら「寝ても覚めても」と書きそうなところであるが、元の漢字は「寐ても窹ても」。
「寐る」と「窹る」が巧みにワンセットになった漢字づかいで、このほうが表現としてはるかに美しい。漢字のもつ意味が雰囲気としてよく出ている。

「寐ても窹ても」という本来の漢字表現を守り通していると、日常に使用する漢字が際限なく広がる。そこで1923(大正12)年にはじめて、常用漢字が設定された。それは日常の不便を解消するための、ひとつの枠組みに過ぎなかったはず。

しかし、現代人はいつのまにか、その枠組みの中だけですっかり満足して暮らしている。それは殆ど「井の中の蛙」状態で、その外側に、実は豊かな大海がある。
ことば談義は、往々にして文字の意義に及んでしまう。常用漢字には、それなりの使命もあり、それなりの効用もあるのは認めなければならないけれど、その外側に広がっていた、日本語の過去の広大な眺めを省みることは、人の心にとって、全くの無用であるわけではないと思う。

「ねてもさめても」この言葉は、日本語の奥深さを感じさせる言葉かもしれない。栂尾・高山寺といえば紅葉の名所と鳥獣戯画だが、意外にも「ねてもさめても」の語源があったというお話vol.24…今京都。前回の語源は「へそくり」(←クリック)。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。



