rrbのブログ - 2008/04のエントリ
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今京都 合従連衡 2008/04/25 12:12 am
がっしょうれんこう…時流を読んで互いに協力したり離反したりすること。また、巧みな計略や外交上の駆引きのこと。
◇ちょっと予備知識 → 中国の戦国時代に飛びぬけて強大だった秦に対して、周囲の小国が考え出した策の名から。
類義語に合従連横(がっしょうれんおう)・従横之言(しょうおうのげん)・
蘇張之弁(そちょうのべん)・雲集霧散(うんしゅうむさん)がある。
桜
新国劇の名作「同期の桜」の一場面に「散る桜、残る桜も散る桜」という名セリフがある(と、いっても実際を知っているわけではないが…)ように、桜の散りぎわのよさは日本人の好むところだ。
ところが誰にでも愛されているこの桜、京都ではお祝いごとに桜の花を使うことはないという。「散る」ということばから連想するものをどうしても受け入れることができないというのだ。
他の地方ではお祝いの日に桜湯を飲むこともされているが、京都では昆布茶があたりまえ。その昔、京都では4月の結婚式もあまりなかったというから驚きだ。
理由は、4月は桜が散る時期だったことと、4月の「4」の文字が「死」に通ずるためによくないということだ。
しかし、美智子皇后さまが4月10日にご成婚されてからはあまり気にされなくなり、現在では4月の結婚はよくないと誰もいわなくなった。
以前、結納や結婚式は月によってはおこなってはいけないとされており、こんなお話があったと聞いた。
1月はお正月で忙しいからあかん。
2月は逃げるからあかん。
3月はお彼岸の月やからあかん。
4月は桜が散るからあかん。
5月はお茶で忙しいからあかん。
6月は田植えの時期で農家の方が忙しいからあかん。
7月は暑さのためお料理が早く腐ってしまうからあかん。
8月はお盆やしあかん。
9月はまたまたお彼岸やからあかん。
11月は葉が落ちるからあかん。
12月は師走で忙しいからあかん。
結局、10月だけしかよい月はないということだ。
粋な京都人のこと、「10月は神無月。神さんがいないからあかん」とはならなかったのだろうか? と思う。
さらに、こんなお話も聞いた。
京都ではないある料亭で3月に会合があった時のお話。お弁当の蓋の上に、一枝の桜が添えられて出てきた。
驚いた京都人の人が「これは梅ですよね?」と聞いたところ、仲居さんは「さぁ、私にはわかりません」と返事。
そのやりとりを聞いていた人が「誰が見ても桜やで」と言った。
「梅ですね?」と尋ねた人も、それが桜であると十分知った上で、桜であってはいけないから、あえてそう言ったのに、その心を理解せず「桜だ」と言い放った人は、京都の心を解さぬ人だといわれた。
という。
こういうと「京都人は桜は嫌い」というイメージを持つが、ところがどっこい。桜のように散ってしまうもの、なくなってしまうものに、どこか共感を覚えるのが京都人だという。
一時的にはなくなっても、いつかは必ず再生するところが、平安の昔から何度も蘇ってきた京都そのもののイメージと、どこかでダブらせているのかもしれない。
いずれにしても「お祝い事に桜はあかん」という京都の文化のお話…今京都。※写真は掲載しようとして忘れていた「十日ゑびす」の日の建仁寺の光景で本文とは関係ないのであしからず。
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◇ちょっと予備知識 → 中国の戦国時代に飛びぬけて強大だった秦に対して、周囲の小国が考え出した策の名から。
類義語に合従連横(がっしょうれんおう)・従横之言(しょうおうのげん)・
蘇張之弁(そちょうのべん)・雲集霧散(うんしゅうむさん)がある。
桜
新国劇の名作「同期の桜」の一場面に「散る桜、残る桜も散る桜」という名セリフがある(と、いっても実際を知っているわけではないが…)ように、桜の散りぎわのよさは日本人の好むところだ。
ところが誰にでも愛されているこの桜、京都ではお祝いごとに桜の花を使うことはないという。「散る」ということばから連想するものをどうしても受け入れることができないというのだ。
他の地方ではお祝いの日に桜湯を飲むこともされているが、京都では昆布茶があたりまえ。その昔、京都では4月の結婚式もあまりなかったというから驚きだ。
理由は、4月は桜が散る時期だったことと、4月の「4」の文字が「死」に通ずるためによくないということだ。
しかし、美智子皇后さまが4月10日にご成婚されてからはあまり気にされなくなり、現在では4月の結婚はよくないと誰もいわなくなった。
以前、結納や結婚式は月によってはおこなってはいけないとされており、こんなお話があったと聞いた。
1月はお正月で忙しいからあかん。
2月は逃げるからあかん。
3月はお彼岸の月やからあかん。
4月は桜が散るからあかん。
5月はお茶で忙しいからあかん。
6月は田植えの時期で農家の方が忙しいからあかん。
7月は暑さのためお料理が早く腐ってしまうからあかん。
8月はお盆やしあかん。
9月はまたまたお彼岸やからあかん。
11月は葉が落ちるからあかん。
12月は師走で忙しいからあかん。
結局、10月だけしかよい月はないということだ。
粋な京都人のこと、「10月は神無月。神さんがいないからあかん」とはならなかったのだろうか? と思う。
さらに、こんなお話も聞いた。
京都ではないある料亭で3月に会合があった時のお話。お弁当の蓋の上に、一枝の桜が添えられて出てきた。
驚いた京都人の人が「これは梅ですよね?」と聞いたところ、仲居さんは「さぁ、私にはわかりません」と返事。
そのやりとりを聞いていた人が「誰が見ても桜やで」と言った。
「梅ですね?」と尋ねた人も、それが桜であると十分知った上で、桜であってはいけないから、あえてそう言ったのに、その心を理解せず「桜だ」と言い放った人は、京都の心を解さぬ人だといわれた。
という。
こういうと「京都人は桜は嫌い」というイメージを持つが、ところがどっこい。桜のように散ってしまうもの、なくなってしまうものに、どこか共感を覚えるのが京都人だという。
一時的にはなくなっても、いつかは必ず再生するところが、平安の昔から何度も蘇ってきた京都そのもののイメージと、どこかでダブらせているのかもしれない。
いずれにしても「お祝い事に桜はあかん」という京都の文化のお話…今京都。※写真は掲載しようとして忘れていた「十日ゑびす」の日の建仁寺の光景で本文とは関係ないのであしからず。
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今京都 公明正大 2008/04/24 12:07 am
こうめいせいだい…心が公平で、私心がなく、不正や隠し事がないこと。またそのさま。
◇ちょっと予備知識 → 類義語は公正平等(こうせいびょうどう)・公平無私(こうへいむし)・
心地光明(しんちこうめい)・大公無私(だいこうむし)がある。
二枚舌
「うそをつくと閻魔さんに舌を抜かれるで」というのは、この「二枚舌」からきたようだ。「二枚舌」の一方を抜くことで、一枚だけの健全な舌に戻しましょうということだったのだろう。
たった一枚しかない舌をくぎ抜きのような怖い道具で抜き取ってやろうなどと脅すつもりは閻魔さんにはなかったのかもしれない。
このように閻魔さんが登場するのは「二枚舌」がそもそも仏教用語を語源とするから。
今、一般に使われている「二枚舌」の意味を調べると「ウソをつくこと」と出ているが、単なるウソつきというよりは、あっちではこういい、こっちではこういうといった、あちらこちらで矛盾したことを平気でいうようなうそのつき方だ。
しかし、もともとの仏教用語には、うそをつくという意味はなかったようだ。「二枚舌」はサンスクリット語を訳した言葉で、仏教では「両舌(りょうぜつ)」ともいわれる。
そして、これは仏教でいわれる十悪業のひとつで、ふたりの人にそれぞれ別のことをいい、その結果、ふたりの仲を裂くことを意味するらしい。
つまり、悪口や陰口をコソコソいうのも「二枚舌」という十悪業のうち。「うそをつくと閻魔さんに舌を抜かれるで」ではなくて、「悪口をいうと閻魔さんに舌を抜かれるで」にすべきだったのかも…。
ところで、仏教の十悪業には「二枚舌」とは別に「悪口」というのもある。現在使われている「悪口」という言葉は、仏教でいえば「二枚舌」のこと。では、仏教でいう「悪口」とは何をさす?
これは「わるくち」ではなく「あっく」と読む。直接、相手に向かって悪い言葉を吐き、人を傷つける行為をいうそうだ。
そういえば「悪口祭」を「あくたれ祭」とか「あっこう祭」と呼ぶ。これはかつて八坂神社でも大晦日の除夜祭として行われていたもので、この種の祭りは全国にみられた。
暗闇のなか、すれちがう見知らぬ他人同士が互いに悪口を言い合い、ののしり合い、言い負かしたほうが勝ち。新年の縁起をかついで悪口を言い合うというユニークな祭り。
大晦日の夜に、十悪業の悪口を全て吐き出して、新年を清らかに迎えるという人々の知恵だったのではないだろうか。
今の時代では一歩間違えば殺人事件にまで発展しそうなお祭りかもしれないね。いずれにしても「二枚舌」は、意外なことに語源が京都にあったのではないかというお話vol.17…今京都。前回の語源は「気質」(←クリック)。※写真は掲載しようとして忘れていた「十日ゑびす」の光景で本文とは関係ないのであしからず。
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◇ちょっと予備知識 → 類義語は公正平等(こうせいびょうどう)・公平無私(こうへいむし)・
心地光明(しんちこうめい)・大公無私(だいこうむし)がある。
二枚舌
「うそをつくと閻魔さんに舌を抜かれるで」というのは、この「二枚舌」からきたようだ。「二枚舌」の一方を抜くことで、一枚だけの健全な舌に戻しましょうということだったのだろう。
たった一枚しかない舌をくぎ抜きのような怖い道具で抜き取ってやろうなどと脅すつもりは閻魔さんにはなかったのかもしれない。
このように閻魔さんが登場するのは「二枚舌」がそもそも仏教用語を語源とするから。
今、一般に使われている「二枚舌」の意味を調べると「ウソをつくこと」と出ているが、単なるウソつきというよりは、あっちではこういい、こっちではこういうといった、あちらこちらで矛盾したことを平気でいうようなうそのつき方だ。
しかし、もともとの仏教用語には、うそをつくという意味はなかったようだ。「二枚舌」はサンスクリット語を訳した言葉で、仏教では「両舌(りょうぜつ)」ともいわれる。
そして、これは仏教でいわれる十悪業のひとつで、ふたりの人にそれぞれ別のことをいい、その結果、ふたりの仲を裂くことを意味するらしい。
つまり、悪口や陰口をコソコソいうのも「二枚舌」という十悪業のうち。「うそをつくと閻魔さんに舌を抜かれるで」ではなくて、「悪口をいうと閻魔さんに舌を抜かれるで」にすべきだったのかも…。
ところで、仏教の十悪業には「二枚舌」とは別に「悪口」というのもある。現在使われている「悪口」という言葉は、仏教でいえば「二枚舌」のこと。では、仏教でいう「悪口」とは何をさす?
これは「わるくち」ではなく「あっく」と読む。直接、相手に向かって悪い言葉を吐き、人を傷つける行為をいうそうだ。
そういえば「悪口祭」を「あくたれ祭」とか「あっこう祭」と呼ぶ。これはかつて八坂神社でも大晦日の除夜祭として行われていたもので、この種の祭りは全国にみられた。
暗闇のなか、すれちがう見知らぬ他人同士が互いに悪口を言い合い、ののしり合い、言い負かしたほうが勝ち。新年の縁起をかついで悪口を言い合うというユニークな祭り。
大晦日の夜に、十悪業の悪口を全て吐き出して、新年を清らかに迎えるという人々の知恵だったのではないだろうか。
今の時代では一歩間違えば殺人事件にまで発展しそうなお祭りかもしれないね。いずれにしても「二枚舌」は、意外なことに語源が京都にあったのではないかというお話vol.17…今京都。前回の語源は「気質」(←クリック)。※写真は掲載しようとして忘れていた「十日ゑびす」の光景で本文とは関係ないのであしからず。
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今京都 千軍万馬 2008/04/23 12:06 am
せんぐんばんば…多数の兵士と兵馬。そこから多くの動乱を経てしたたかになった人。また、ある分野について経験が豊富なこと。
◇ちょっと予備知識 → 類義語に千兵万馬(せんぺいばんば)・海千山千(うみせんやません)・
百戦錬磨(ひゃくせんれんま)・飽経風霜(ほうけいふうそう)がある。
岩上神社
京都では、辻(つじ)ごとに歴史があり、物語がある。京都市上京区、西陣・大黒町の辻のそれは「岩神さん」。木造の社の中に、大人の背丈ほどある大きな石が鎮座している。脇にある駒札には、岩上神社(岩神祠(いわがみのほこら))とあり、以前に写真だけは掲載した。
言い伝えによると、もともとは中京区の二条堀川付近にあったという。徳川家康の二条城築城の際、社殿は岩上通六角に移された。ご神体の「岩神さん」は、大きすぎて引くことができず、そのまま残したとも、社殿とともに移したともいわれているが定かではない。
物語が始まるのは、その後。
「姿が良い」と後水尾天皇の女御中和門院の御所の庭に移したが、夜になると「帰りたい」とすすり泣きの声が聞こえた。
はたまた、内裏の築山に引こうとすると、ほえた。
子どもに姿を変えて町を歩いた。
など、さまざまな騒ぎを引き起こしたとされる。
真言宗の僧侶が現在の地に移し、寺の本尊として安置したところ怪異はおさまり、有乳院岩神寺と称し授乳の神として信仰を集めるようになったが、寺は西陣焼け(1730年)と天明の大火(1788)で類焼、明治維新の前後に廃寺となった。
明治時代、西陣の繁栄に支えられて、同じ場所に「岩神座」という芝居小屋が建った。すぐ東には「西陣の聖天さん」と親しまれる雨宝院。人の集まるにぎやかな一角だったと想像できる。
現在、土地は帯製造会社の所有。岩神さんと岩神座にちなんだ「岩神ホール」が建ち、ファッションショーや演劇などの舞台となっている。織り屋が軒を連ねる、落ち着いたたたずまいの大黒町。
以前の岩神さんは、工場などに囲まれていたため、わかりにくかったが、「このあたりの守り神さんなのでお参りしやすいほうがよい」と、少しずつ整備し昨年3月鳥居を新調したという。
周辺は石畳を敷いた落ち着いた町並み。おまけに「西陣なので、京都らしいものを」と北山杉の磨き丸太。美しい木肌が町並みともよく似合っている。「美しい町並みがあれば歩きたくなる。人通りがあることは安心につながる。岩神さんをシンボルに、人の集まる、町づくりを続けたい」という…今京都。
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◇ちょっと予備知識 → 類義語に千兵万馬(せんぺいばんば)・海千山千(うみせんやません)・
百戦錬磨(ひゃくせんれんま)・飽経風霜(ほうけいふうそう)がある。
岩上神社
京都では、辻(つじ)ごとに歴史があり、物語がある。京都市上京区、西陣・大黒町の辻のそれは「岩神さん」。木造の社の中に、大人の背丈ほどある大きな石が鎮座している。脇にある駒札には、岩上神社(岩神祠(いわがみのほこら))とあり、以前に写真だけは掲載した。
言い伝えによると、もともとは中京区の二条堀川付近にあったという。徳川家康の二条城築城の際、社殿は岩上通六角に移された。ご神体の「岩神さん」は、大きすぎて引くことができず、そのまま残したとも、社殿とともに移したともいわれているが定かではない。
物語が始まるのは、その後。
「姿が良い」と後水尾天皇の女御中和門院の御所の庭に移したが、夜になると「帰りたい」とすすり泣きの声が聞こえた。
はたまた、内裏の築山に引こうとすると、ほえた。
子どもに姿を変えて町を歩いた。
など、さまざまな騒ぎを引き起こしたとされる。
真言宗の僧侶が現在の地に移し、寺の本尊として安置したところ怪異はおさまり、有乳院岩神寺と称し授乳の神として信仰を集めるようになったが、寺は西陣焼け(1730年)と天明の大火(1788)で類焼、明治維新の前後に廃寺となった。
明治時代、西陣の繁栄に支えられて、同じ場所に「岩神座」という芝居小屋が建った。すぐ東には「西陣の聖天さん」と親しまれる雨宝院。人の集まるにぎやかな一角だったと想像できる。
現在、土地は帯製造会社の所有。岩神さんと岩神座にちなんだ「岩神ホール」が建ち、ファッションショーや演劇などの舞台となっている。織り屋が軒を連ねる、落ち着いたたたずまいの大黒町。
以前の岩神さんは、工場などに囲まれていたため、わかりにくかったが、「このあたりの守り神さんなのでお参りしやすいほうがよい」と、少しずつ整備し昨年3月鳥居を新調したという。
周辺は石畳を敷いた落ち着いた町並み。おまけに「西陣なので、京都らしいものを」と北山杉の磨き丸太。美しい木肌が町並みともよく似合っている。「美しい町並みがあれば歩きたくなる。人通りがあることは安心につながる。岩神さんをシンボルに、人の集まる、町づくりを続けたい」という…今京都。
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今京都 言行一致 2008/04/22 12:09 am
げんこういっち…口に出したことばと、実際の行動とが同じで矛盾がないこと。
◇ちょっと予備知識 → 「言文一致の原稿」などと使われる言文一致は、文章を口語(話し言葉)調で書くこと。
類義語に形名参同(けいめいさんどう)・有言実行街(ゆうげんじっこう)がある。
対義語は言行相反(げんこうそうはん)・口是心非(こうぜしんひ)。
登天石 (水火天満宮)
以前にも掲載した水火天満宮。学問の神様、菅原道真を祭るこの境内に、幼児ほどの大きさで上部の少しくびれた石が本殿に向き合うように置かれている。「登天石(とうてんせき)」と呼ばれ大切に祭られてきた同石には道真にまつわるエピソードが残る。
今回、さらに調べることができたので、改めて掲載する。
同天満宮の由緒書などによれば、藤原時平らの策略で道真は九州・太宰府に左遷され、903(延喜3)年に亡くなった。それ以来、都は大雨や落雷、洪水などに見舞われ、道真を太宰府に追いやった時平ら関係者が相次いで変死すると、京の人々は道真の怨霊の仕業だと口にした。
醍醐天皇は、天変地異を鎮めるために比叡山延暦寺の法性坊尊意僧正に祈とうを命じた。勅命を受けた尊意僧正は雷鳴とどろく中、山を下りて宮中に急いだが、鴨川まで来ると突然、川の水位が上がり始め、とうとう土手を越えて町中に流れ込んできた。
尊意僧正は手にした数珠をひともみして祈ると、水の流れは二つに分かれ一つの石が現れた。石の上には道真の霊が立っていた。尊意僧正との問答の末、道真の霊は雲の上に飛び去り、それまでの荒れ狂っていた雷雨がぴたりとやんだという。
石の名前は一連の話から名付けられたとされる。その後、尊意僧正が道真の霊を供養するため同天満宮を創建したと伝えられている。
水火天満宮はもともと現在の場所の西側にあったが、1952(昭和27)年に移転。江戸時代の地図で見ると、当時の天満宮は堀川通のちょうど北端にあたっていたという。
水火という変わった名称について、元の境内のそばには鴨川から分かれた二俣川が流れており、しばしばこの地域は水害に見舞われていた。水難を封じるために社が建てられ、雷神である道真公を祭ることから水火と名付けられたという。
京都検定にも取り上げられ、登天石を見に訪れる参拝者も多くなっているという。登天石の西隣には昭和に入ってから寄贈されたという「出世石」が仲良く並んでいる。
この「登天石」はもともと隕石(いんせき)だったという話もあるという。道真公伝説とともに天にゆかりが多い石だということか…今京都。
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◇ちょっと予備知識 → 「言文一致の原稿」などと使われる言文一致は、文章を口語(話し言葉)調で書くこと。
類義語に形名参同(けいめいさんどう)・有言実行街(ゆうげんじっこう)がある。
対義語は言行相反(げんこうそうはん)・口是心非(こうぜしんひ)。
登天石 (水火天満宮)
以前にも掲載した水火天満宮。学問の神様、菅原道真を祭るこの境内に、幼児ほどの大きさで上部の少しくびれた石が本殿に向き合うように置かれている。「登天石(とうてんせき)」と呼ばれ大切に祭られてきた同石には道真にまつわるエピソードが残る。
今回、さらに調べることができたので、改めて掲載する。
同天満宮の由緒書などによれば、藤原時平らの策略で道真は九州・太宰府に左遷され、903(延喜3)年に亡くなった。それ以来、都は大雨や落雷、洪水などに見舞われ、道真を太宰府に追いやった時平ら関係者が相次いで変死すると、京の人々は道真の怨霊の仕業だと口にした。
醍醐天皇は、天変地異を鎮めるために比叡山延暦寺の法性坊尊意僧正に祈とうを命じた。勅命を受けた尊意僧正は雷鳴とどろく中、山を下りて宮中に急いだが、鴨川まで来ると突然、川の水位が上がり始め、とうとう土手を越えて町中に流れ込んできた。
尊意僧正は手にした数珠をひともみして祈ると、水の流れは二つに分かれ一つの石が現れた。石の上には道真の霊が立っていた。尊意僧正との問答の末、道真の霊は雲の上に飛び去り、それまでの荒れ狂っていた雷雨がぴたりとやんだという。
石の名前は一連の話から名付けられたとされる。その後、尊意僧正が道真の霊を供養するため同天満宮を創建したと伝えられている。
水火天満宮はもともと現在の場所の西側にあったが、1952(昭和27)年に移転。江戸時代の地図で見ると、当時の天満宮は堀川通のちょうど北端にあたっていたという。
水火という変わった名称について、元の境内のそばには鴨川から分かれた二俣川が流れており、しばしばこの地域は水害に見舞われていた。水難を封じるために社が建てられ、雷神である道真公を祭ることから水火と名付けられたという。
京都検定にも取り上げられ、登天石を見に訪れる参拝者も多くなっているという。登天石の西隣には昭和に入ってから寄贈されたという「出世石」が仲良く並んでいる。
この「登天石」はもともと隕石(いんせき)だったという話もあるという。道真公伝説とともに天にゆかりが多い石だということか…今京都。
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今京都 不偏不党 2008/04/21 12:05 am
ふへんふとう…特定の主義主張にこだわらず、公平中立の立場を保つこと。どちらにも味方しないこと。
◇ちょっと予備知識 → 「不党」は党を組んだりそれに加わったりしないこと。
類義語に無偏無党(むへんむとう)・公平無私(こうへいむし)・無私無偏(むしむへん)が
ある。
町並み
地蔵物語(160)
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◇ちょっと予備知識 → 「不党」は党を組んだりそれに加わったりしないこと。
類義語に無偏無党(むへんむとう)・公平無私(こうへいむし)・無私無偏(むしむへん)が
ある。
町並み
地蔵物語(160)
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