rrbのブログ - rrbさんのエントリ
ヘッダーナビゲーション
現在のカテゴリー位置
サイト全体のカテゴリーナビゲーション
おやかまっさん 不謹慎狩り 2016/04/27 12:00 am
「不謹慎狩り」という新しい言葉が誕生した。芸能人の熊本地震に向けたSNSの内容をバッシングするものだ。
芸能人の多くは文筆家ではない。確かに誤解を招く箇所もあるが、字面をストレートに受け取る必要もない。重要なのは、そこに存在している「心」を理解することであろう。彼・彼女たちの真意は不明だが、「心配している」「なんとか支援をしたい」「力になりたい」「励ましたい」という表明は事実である。それで十分だろう。
インターネット上にどんな文章であったとしても、自らの意思と手で「掲載する」ということはそれなりの覚悟が必要だ。バッシングされたからとコメントなりを削除する行為は正しいだろうかと疑問をもつ。掲載した内容が特定の人物を示しており、その人物から削除要求があるのであれば削除も理解できる。しかし、バッシング者はその特定の人物ではない。ひとつの意見として、これまた文筆家ではない文で投稿しているだけである。
にもかかわらず、「削除する」ということは、バッシングの内容を「認めた」ということにつながる。たとえば「売名行為」と書かれたならば、それを認めたことになる。そうでないとするならば、意見を交わすべきである。たとえば、「私がどのような行動をとれば売名行為ではないと認識しますか?」と聞くのもひとつの方法だ。日本には、否定も肯定もしないという変なところがある。さらに否定も肯定もしないということは肯定したと判断されてしまうところもある。削除という行為は肯定も否定もしない行為であり、肯定したととられてもしかたがない。否定するならば、きちんと意思表示をすべきである。
震災という特別な場合でなくても、世界には援助を必要としている人々がいる。芸能人などのSNSについては、たとえば、閲覧カウント1ポイントを1円として支援金として寄付する仕組みなどを日常から組み込むのはどうだろうか。バッシング投稿も支援金になるし、賛同投稿も支援金となる。事が発生してからではなく、常日頃から取り組んでおけば、想定もしない炎上が発生する可能性は否定できないが、余計な炎上がなくなるのではないかと推測する。
いずれにしても、自分にできることを自分なりに整理し、信念をもって取り組むことを心がけたい。「不謹慎狩り」という新語の登場に、改めてそう思った…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・嵯峨野・愛宕念仏寺》
芸能人の多くは文筆家ではない。確かに誤解を招く箇所もあるが、字面をストレートに受け取る必要もない。重要なのは、そこに存在している「心」を理解することであろう。彼・彼女たちの真意は不明だが、「心配している」「なんとか支援をしたい」「力になりたい」「励ましたい」という表明は事実である。それで十分だろう。
インターネット上にどんな文章であったとしても、自らの意思と手で「掲載する」ということはそれなりの覚悟が必要だ。バッシングされたからとコメントなりを削除する行為は正しいだろうかと疑問をもつ。掲載した内容が特定の人物を示しており、その人物から削除要求があるのであれば削除も理解できる。しかし、バッシング者はその特定の人物ではない。ひとつの意見として、これまた文筆家ではない文で投稿しているだけである。
にもかかわらず、「削除する」ということは、バッシングの内容を「認めた」ということにつながる。たとえば「売名行為」と書かれたならば、それを認めたことになる。そうでないとするならば、意見を交わすべきである。たとえば、「私がどのような行動をとれば売名行為ではないと認識しますか?」と聞くのもひとつの方法だ。日本には、否定も肯定もしないという変なところがある。さらに否定も肯定もしないということは肯定したと判断されてしまうところもある。削除という行為は肯定も否定もしない行為であり、肯定したととられてもしかたがない。否定するならば、きちんと意思表示をすべきである。
震災という特別な場合でなくても、世界には援助を必要としている人々がいる。芸能人などのSNSについては、たとえば、閲覧カウント1ポイントを1円として支援金として寄付する仕組みなどを日常から組み込むのはどうだろうか。バッシング投稿も支援金になるし、賛同投稿も支援金となる。事が発生してからではなく、常日頃から取り組んでおけば、想定もしない炎上が発生する可能性は否定できないが、余計な炎上がなくなるのではないかと推測する。
いずれにしても、自分にできることを自分なりに整理し、信念をもって取り組むことを心がけたい。「不謹慎狩り」という新語の登場に、改めてそう思った…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・嵯峨野・愛宕念仏寺》
バッシング…真意は不明だが…見ていて気持ちのいいものではないよね
このエントリーの情報
おやかまっさん スリリングな撮影 2016/04/25 12:00 am
京都の町撮りをしていて気づいたことがある。それは児童公園に子どもが戻ってきていることだ。この日も歓声が聞こえたので声の方に向かっていくと子どもたちが数人ブランコをしていた。
写真を撮るつもりでカメラを構えようとしたが、「待てよ…ヤバイかも…」と思いとどまった。子どもたちを写真に撮っている姿は、一歩間違えば職務質問にあうかも…だ。
しかし撮りたい。
苦肉の策で木を撮っているフリをして子どもたちをいれた。「何を撮っているのか」と聞かれても、「木」と答えられるように木にピントを合わせる。そしてシャッターを切る。
「よ〜し、ここまでは順調だ」と思わずつぶやく。周りを見渡したが、大人らしい人影はない。後は、その場を早々に退散するだけだ。数分後、何事もなく移動している。もう大丈夫だ。
こんなことを考えないと撮れない世の中だ。本当に日本って平和なのだろうか…と思う。以上、ちょっとスリリングな撮影だった…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・西大路御池界隈》
写真を撮るつもりでカメラを構えようとしたが、「待てよ…ヤバイかも…」と思いとどまった。子どもたちを写真に撮っている姿は、一歩間違えば職務質問にあうかも…だ。
しかし撮りたい。
苦肉の策で木を撮っているフリをして子どもたちをいれた。「何を撮っているのか」と聞かれても、「木」と答えられるように木にピントを合わせる。そしてシャッターを切る。
「よ〜し、ここまでは順調だ」と思わずつぶやく。周りを見渡したが、大人らしい人影はない。後は、その場を早々に退散するだけだ。数分後、何事もなく移動している。もう大丈夫だ。
こんなことを考えないと撮れない世の中だ。本当に日本って平和なのだろうか…と思う。以上、ちょっとスリリングな撮影だった…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・西大路御池界隈》
一眼レフで狙うと、撮影者の性別にかかわらず、本当に誤解されそうだね
このエントリーの情報
おやかまっさん お前 2016/04/21 12:00 am
夫婦が「いつまでも、仲よく暮らしていきましょう」ということを、『お前百まで わしゃ九十九まで ともに白髪の生えるまで』という。これは、妻が、夫に対して、言った言葉である。夫の年齢が100才、妻の年齢が99才になるまで、末長く、仲よく暮らしたいという願いが、こめられている。
「お前」とは、妻が夫を呼ぶときに使う言葉。古くは、目上の人に対する尊敬語として使った。「百」は100才のこと。「わしゃ」は、「わし」のことで、「わたくし」を短くした言葉であり、この場合は妻自身を示す。「九十九」は99才。
さて、この言葉、てっきり男性が女性に発したものだと思っていた。思い込みはあかんということだ。調べて正しく理解しておきたい。
「お前さん」
「なんだい?」
「なんもないよ、お前さん」
「おかしな奴だなぁ」
そんな甘いやり取り…無縁だぁ〜!…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・首途八幡宮(かどで はちまんぐう)界隈》
「お前」とは、妻が夫を呼ぶときに使う言葉。古くは、目上の人に対する尊敬語として使った。「百」は100才のこと。「わしゃ」は、「わし」のことで、「わたくし」を短くした言葉であり、この場合は妻自身を示す。「九十九」は99才。
さて、この言葉、てっきり男性が女性に発したものだと思っていた。思い込みはあかんということだ。調べて正しく理解しておきたい。
「お前さん」
「なんだい?」
「なんもないよ、お前さん」
「おかしな奴だなぁ」
そんな甘いやり取り…無縁だぁ〜!…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・首途八幡宮(かどで はちまんぐう)界隈》
人って思い込みが激しいところがあるよね、正しく理解することは大切だね
このエントリーの情報
おやかまっさん 厄介な大人が誕生する経緯 2016/04/11 12:00 am
なんでも思い通りになると感じていたものが、どうも思い通りにならないものらしいとわかり始めるのは何歳くらいか?ふつうは、幼児期の後半から、遅くても小学校に入学する前後には、「どうも世の中は期待通りに動くとは限らない」とだんだん判明してくる。天気になるはずの遠足の日が雨になったり、大好きな先生が転勤で、あまり好きではない先生が担任になったり…。
この思うようにならないストレスを、親に対してぶつける「反抗期」ってやつは、ふつうは14〜17歳の頃だ。小学校の前後に感じるのは、大人の社会に対する複雑な思いではなく、思い通りにいかない苛立ちや自分自身への苛立ちである。
「全能」だと感じていた自分に、じつは「限界」があることを知る。親の助けがあったからできた、助けがないと自分だけではできない。その当たり前のことに気づく、とまどいもある。
自分にはできない。でも周囲には、それをうまくやっているヤツがいる。自分が病気で休んでも、クラスのみんなは遠足に行ってしまう。
直前.にケガをして走れなくても、運動会は滞りなく行われる。こうした体験を重ねて、「どうやら世界は自分を中心にまわっているのではない」ことを発見する。こういう葛藤を経て、人は大人になっていくのである。
大人のなかには、そんな葛藤を経験せずに大人になった人もいる。また、経験しているのに現在の立場におぼれてしまう人もいる。周囲の迷惑を顧みず、「世界の中心は自分」という人だ。
バブル時代に「自分の気持ち至上主義」とも呼べるライフスタイルがあった。自分にあうと思われるものを、買わせるためでもあった。多くの日本人が、この風潮に酔ってしまったのである。
「自分がいちばんカワイイ」から電車の中で化粧するのも平気。「自分の気持ちをいちばんに考える生き方がステキ」だから、子どもをクルマに放ったまま、パチンコをするのもOK。
「自分の気持ち至上主義」で生きた世代や育てられた世代が、そのまま子育て世代になれどうなるか、想像に難くない。
次のようなモンスターペアレンツが現れることもある。
「頼んだわけではないのだから、学校の給食で『いただきます』を言わせるな」
「卒業アルバムに、うちの子どもの写真が少ない、撮りなおせ」
つまり「自分の気持ち至上主義」が「自分の子ども至上主義」につながる。
こうして厄介な大人たちが誕生していくのである…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《神戸》
この思うようにならないストレスを、親に対してぶつける「反抗期」ってやつは、ふつうは14〜17歳の頃だ。小学校の前後に感じるのは、大人の社会に対する複雑な思いではなく、思い通りにいかない苛立ちや自分自身への苛立ちである。
「全能」だと感じていた自分に、じつは「限界」があることを知る。親の助けがあったからできた、助けがないと自分だけではできない。その当たり前のことに気づく、とまどいもある。
自分にはできない。でも周囲には、それをうまくやっているヤツがいる。自分が病気で休んでも、クラスのみんなは遠足に行ってしまう。
直前.にケガをして走れなくても、運動会は滞りなく行われる。こうした体験を重ねて、「どうやら世界は自分を中心にまわっているのではない」ことを発見する。こういう葛藤を経て、人は大人になっていくのである。
大人のなかには、そんな葛藤を経験せずに大人になった人もいる。また、経験しているのに現在の立場におぼれてしまう人もいる。周囲の迷惑を顧みず、「世界の中心は自分」という人だ。
バブル時代に「自分の気持ち至上主義」とも呼べるライフスタイルがあった。自分にあうと思われるものを、買わせるためでもあった。多くの日本人が、この風潮に酔ってしまったのである。
「自分がいちばんカワイイ」から電車の中で化粧するのも平気。「自分の気持ちをいちばんに考える生き方がステキ」だから、子どもをクルマに放ったまま、パチンコをするのもOK。
「自分の気持ち至上主義」で生きた世代や育てられた世代が、そのまま子育て世代になれどうなるか、想像に難くない。
次のようなモンスターペアレンツが現れることもある。
「頼んだわけではないのだから、学校の給食で『いただきます』を言わせるな」
「卒業アルバムに、うちの子どもの写真が少ない、撮りなおせ」
つまり「自分の気持ち至上主義」が「自分の子ども至上主義」につながる。
こうして厄介な大人たちが誕生していくのである…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《神戸》
自由には責任がともない、権利にも義務がともなう、を忘れたらあんということや
このエントリーの情報
おやかまっさん 知徳体 2016/04/07 12:00 am
「知徳体(ちとくたい)」という言葉がある。といっても、『広辞苑』には掲載されていない。子どもが成長するには、「知」「徳」「体」のバランスが大切だというように使う教育界での言葉だ。
「知」は、「知識」「知恵」の「知」で、アタマ(頭)にかかわることを示す。
「徳」は、「道徳」「美徳」の「徳」で、ココロ(心)にかかわることを示す。
「体」は、「体格」「体重」の「体」で、カラダ(体)にかかわることを示す。
つまり、頭と心と体の発育バランスが大切ということ。頭でっかちで、知識はたくさん頭に入っていても、心が貧しかったり、体はやたら鍛えていても、頭がついていかないから、試合で勝てなかったり、心は優しいけれど、体が弱く(体力不足)で人を助けられなかったり。そうならないように「知力」「徳力」「体力」のバランスのよい育成をめざし、
「知育(ちいく)」…アタマ(頭)を鍛えること
「徳育(とくいく)」…ココロ(心)を鍛えること
「体育(タイイク)」…カラダ(体)を鍛えること
を教師が指導する。
これが学校の役割でもある…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・東山界隈》
「知」は、「知識」「知恵」の「知」で、アタマ(頭)にかかわることを示す。
「徳」は、「道徳」「美徳」の「徳」で、ココロ(心)にかかわることを示す。
「体」は、「体格」「体重」の「体」で、カラダ(体)にかかわることを示す。
つまり、頭と心と体の発育バランスが大切ということ。頭でっかちで、知識はたくさん頭に入っていても、心が貧しかったり、体はやたら鍛えていても、頭がついていかないから、試合で勝てなかったり、心は優しいけれど、体が弱く(体力不足)で人を助けられなかったり。そうならないように「知力」「徳力」「体力」のバランスのよい育成をめざし、
「知育(ちいく)」…アタマ(頭)を鍛えること
「徳育(とくいく)」…ココロ(心)を鍛えること
「体育(タイイク)」…カラダ(体)を鍛えること
を教師が指導する。
これが学校の役割でもある…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・東山界隈》
最近は本来の学校の役目が忘れられているように感じるなぁ