rrbのブログ - rrbさんのエントリ
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おやかまっさん 意気込み 2016/02/09 12:00 am
ここにきて意気込んできている。正しくは気負いすぎているかな…だ。あっ、ブログの掲載内容の話。書こう、書こうとしてしんどくなった経験があり、気楽に…で継続できる経験もある。なのに、また、書こう書こうとしている自分がいる。ったく、成長のカケラもありゃせん…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
気負いすぎなんよ、もっと気楽にしたら?
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おやかまっさん 足の赴くままにそぞろ歩き 2016/02/04 12:00 am
ウォーキングをしている人をよく見かける。とても良いことであるが、歩き終えた後の会話が「歩数」と「ダイエット」の話に偏っているのではないかと気になる。
大和言葉に《そぞろ歩き》《足の赴くままに》というのがある。このブログの紹介部分でも使用している。《そぞろ歩き》は、ぶらぶらと歩くこと。《足の赴くままに》は、当てもなく歩き回るということ。カメラをもって、足の赴くままにそぞろ歩くのがよい。いろいろな発見がある。何よりも、足の赴くままにそぞろ歩く時間はとても贅沢だ。そこで撮れた写真を掲載し、思うままに文章をつづる。それがこのブログのメインだ。目的に向かって急いで歩くのもいいが、足の赴くままのそぞろ歩きで新たな発見をする楽しみも一興である。
《そぞろ歩く》を調べていると、「大阪ラプソディー」という歌に出会った。この歌は、作詞:山上路夫、作曲:猪俣公章、編曲:藤田はじめ によるもので、漫才コンビ・海原千里・万里のシングル曲として1976年2月にリリース。(な、なんと40年前の歌ではないか!) 歌い出しの歌詞は、 〜♪ あの人もこの人も そぞろ歩く宵の街 どこへ行く二人づれ 御堂筋は恋の道… ♪〜 である。大阪の街の見どころにふれつつ、恋人同士の心情をも描いている。大阪の名所がいくつも織り込まれており、40万枚程の売り上げがあったという。メインパートは海原千里が歌い、サブは万里が歌っている。千里・万里は、1977年に解散したが、その後、千里は上沼恵美子として芸能界に復帰…げげっ、関西のテレビでおなじみの上沼恵美子さん! 歌はYouTubeで見ることができる。それにしても、言葉ひとつから意外な発見があった。
現実の世界でなくても、空想でいろいろな世界を《そぞろ歩く》のにも新たな発見がある…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・四条大橋》
大和言葉に《そぞろ歩き》《足の赴くままに》というのがある。このブログの紹介部分でも使用している。《そぞろ歩き》は、ぶらぶらと歩くこと。《足の赴くままに》は、当てもなく歩き回るということ。カメラをもって、足の赴くままにそぞろ歩くのがよい。いろいろな発見がある。何よりも、足の赴くままにそぞろ歩く時間はとても贅沢だ。そこで撮れた写真を掲載し、思うままに文章をつづる。それがこのブログのメインだ。目的に向かって急いで歩くのもいいが、足の赴くままのそぞろ歩きで新たな発見をする楽しみも一興である。
《そぞろ歩く》を調べていると、「大阪ラプソディー」という歌に出会った。この歌は、作詞:山上路夫、作曲:猪俣公章、編曲:藤田はじめ によるもので、漫才コンビ・海原千里・万里のシングル曲として1976年2月にリリース。(な、なんと40年前の歌ではないか!) 歌い出しの歌詞は、 〜♪ あの人もこの人も そぞろ歩く宵の街 どこへ行く二人づれ 御堂筋は恋の道… ♪〜 である。大阪の街の見どころにふれつつ、恋人同士の心情をも描いている。大阪の名所がいくつも織り込まれており、40万枚程の売り上げがあったという。メインパートは海原千里が歌い、サブは万里が歌っている。千里・万里は、1977年に解散したが、その後、千里は上沼恵美子として芸能界に復帰…げげっ、関西のテレビでおなじみの上沼恵美子さん! 歌はYouTubeで見ることができる。それにしても、言葉ひとつから意外な発見があった。
現実の世界でなくても、空想でいろいろな世界を《そぞろ歩く》のにも新たな発見がある…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・四条大橋》
考えてみれば、カメラを持ってのお出かけは、とーっても贅沢な時間を過ごしているよね
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おやかまっさん 適切な距離(課題の分離) 2016/02/03 12:00 am
人間関係がうまくいく秘訣は、相手との適切な距離をとることである。相手に頼まれてもいないのに、「なんとかしなければ」「この人は頼りにならないから、自分が解決してあげなきゃ」などと人の課題に口をだしたり、逆に、自分の問題なのに「あの人があんなことをしたから、こんなふうになった」と誰かのせいにしてしまうことがある。
人間関係において、アドラー心理学の重要な考え方に、「課題の分離」というものがある。これは相手との関係において、相手の課題なのか、自分の課題なのかを明確にし、踏み込まない、踏み込ませないことを示している。この境界線を越えてしまうために、人間関係のトラブルを生じさせてしまうのである。
相手の課題なのか、自分の課題なのか、あるいは共同の課題なのかを明確にすることが大切だ。「課題の分離」覚えておきたい言葉である。
ちょっと心理学の話が続いたが、今回で一段落としよう……ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・四条烏丸界隈》
人間関係において、アドラー心理学の重要な考え方に、「課題の分離」というものがある。これは相手との関係において、相手の課題なのか、自分の課題なのかを明確にし、踏み込まない、踏み込ませないことを示している。この境界線を越えてしまうために、人間関係のトラブルを生じさせてしまうのである。
相手の課題なのか、自分の課題なのか、あるいは共同の課題なのかを明確にすることが大切だ。「課題の分離」覚えておきたい言葉である。
ちょっと心理学の話が続いたが、今回で一段落としよう……ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・四条烏丸界隈》
わかっちゃいるけど《やれない》のが人間だよね
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おやかまっさん 怒りの感情 2016/02/02 12:00 am
エッセンシャルな問題、つまり生きていくうえで本質的・不可欠な問題(生命・財産・身体に実害を及ぼす要因)については、相手の怒りに引っ張られず、冷静に対応することが必要だ。相手に怒りをぶつけられると、ついこちらも怒りで応戦してしまうことがある。そんなときは、一拍おいてから、「攻撃的に怒りをぶつける人は、何かを恐れている臆病な人」「その恐れを表明する手段として怒りを使っている」と捉えることが大切である。
こんなときに、怒りで返せば、相手はますます恐れを強め、反撃してくる。こういうときは、心理的、物理的に距離を置いて冷静に対応するしかない。もし自分自身が怒りの感情を抱いてしまったときは、「本当はどうしたい?」という目的に目を向けるとよい。人は怒ったとき、その感情をみさかいなくぶつけることが多い。そして、みさかいがつかなくなった結果、争いに発展してしまう。
トラブルを解決することが、最終目的であるならば、怒りをぶつけて争いに発展させることは得策ではない。こういうときは、「本当はどうしたいのか?」に目を向けると答えがでる。人間関係のもめごとは、実はそれほど大きなことではないことが多い。「怒り」はしたが、「争わない」という姿勢が大切であり、そのためには「目的に目を向ける」のがよい。
もう一つ、心理学の世界では、相手の怒りのテンションと同じテンションで謝罪すると、相手の怒りのテンションが終息するというものがある…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
こんなときに、怒りで返せば、相手はますます恐れを強め、反撃してくる。こういうときは、心理的、物理的に距離を置いて冷静に対応するしかない。もし自分自身が怒りの感情を抱いてしまったときは、「本当はどうしたい?」という目的に目を向けるとよい。人は怒ったとき、その感情をみさかいなくぶつけることが多い。そして、みさかいがつかなくなった結果、争いに発展してしまう。
トラブルを解決することが、最終目的であるならば、怒りをぶつけて争いに発展させることは得策ではない。こういうときは、「本当はどうしたいのか?」に目を向けると答えがでる。人間関係のもめごとは、実はそれほど大きなことではないことが多い。「怒り」はしたが、「争わない」という姿勢が大切であり、そのためには「目的に目を向ける」のがよい。
もう一つ、心理学の世界では、相手の怒りのテンションと同じテンションで謝罪すると、相手の怒りのテンションが終息するというものがある…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
感情の中でも《怒り》が一番厄介。目的に目を向けるのは大切なことだ
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おやかまっさん エッセンシャルかトリビアルか 2016/01/28 12:00 am
エッセンシャル(本質的)な問題か、トリビアル(瑣末・さまつ)な問題かに分けてとらえる。エッセンシャルな問題とは、生きていくうえで本質的・不可欠な問題であり、生命・財産・身体に実害をおよぼす要因かどうかということである。命に関わる自己や、生命保険やローン、大病をわずらうことなどが当てはまる。
トリビアルな問題とは、人生にとってどうでもよいこと、とるに足らない問題のことである。生命・財産・身体に影響がなく、放置しておいても何も問題がないもののこと。他者からの批判や自分のメンツが傷つけられたことなどがこれに当てはまる。
人から非難されたりすると、過剰反応して仕返しをしようとする人がいる。そうしているうちに、ますますエスカレートして、収拾がつかなくなることもある。些細なトリビアルな問題は、重大事として扱う必要はなく、トリビアルに扱えばよい。実害を及ぼすエッセンシャルな問題だけに注力するように…ということだ。
わかっちゃいるけど、理不尽な批判には反応してしまうのよね。それが人間ってもんだ…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・堀川》
トリビアルな問題とは、人生にとってどうでもよいこと、とるに足らない問題のことである。生命・財産・身体に影響がなく、放置しておいても何も問題がないもののこと。他者からの批判や自分のメンツが傷つけられたことなどがこれに当てはまる。
人から非難されたりすると、過剰反応して仕返しをしようとする人がいる。そうしているうちに、ますますエスカレートして、収拾がつかなくなることもある。些細なトリビアルな問題は、重大事として扱う必要はなく、トリビアルに扱えばよい。実害を及ぼすエッセンシャルな問題だけに注力するように…ということだ。
わかっちゃいるけど、理不尽な批判には反応してしまうのよね。それが人間ってもんだ…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・堀川》
人には感情があり、その感情が正しい判断の邪魔をすることがある