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おやかまっさん もらいずて 2009/12/25 12:00 am
もらいずて
贈り物をもらって返礼しないこと。「いつも結構なもんいただきまして、モライズテで、すんまへん」「貰い」に「捨て」をつけた。モライズテは「貰いっ放し」ということ。客が手土産を持参し、「しょうもない物どすけど、どうぞお納めやしとくりゃす」というと「それはそれは、そんなら辞儀なしに頂戴します」とあいさつする。ジギナシニは「遠慮なしに」という意味。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
クリスマス
今日はクリスマス。「クリスマスの思い出は…」と考えると、すんなりと出てくるのはふたつ。
カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
ひとつは、イヴの話。数年前のことだけど、仕事をしていたら、メールが届いた。「誰だろう…」と思って開いて見ると、仕事絡みで出会った「Y」さんから。仕事絡みといっても、それは最初だけであり、仕事を超えての付き合いというか、「友だち」になっていた。そのメールのやりとりは、
「何してる?」
「んっ!? 仕事してるで」
「おんなじ。で、今、夜食にカレー食べてる。イヴの夜だというのに…」
「そっかぁ、今夜はイヴやなぁ。イヴの夜にお互い仕事か。でも、そっちはカレー食べてるんや。こっちはまだなんも食べてへん」
「そりゃ、また、悲しい話やな。カレーを食べれてるだけでも幸せということか…な」
「そやで、まだマシやん。お腹すいてきたわ」
「ところで、できた?」
「ん〜…もうちょい。日付変更線までには終わって帰りたい。明日のこともあるし…」
「そやなぁ、明日もあるもんな。こっちも日付変更線手前で終わることにする」
「そうしぃ、後は、明日の話や」
という内容だったように記憶している。イヴの夜、特にこれっといった予定がなくても、お互い仕事ということで感情を分かち合ったひと時だった。翌日の25日は仕事の打合せで「Y」さんと会い、昨夜のメールの話で盛り上がった。その翌年のイヴの夜に、また「Y」さんからメールが届いた。「今年も仕事。けど、カレーは食べてない」というものだった。こんな何気ないやりとりが心地よいイヴの夜の思い出。ちょっと侘しい気もするが、楽しいひと時だった。
カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
もうひとつは、随分前のクリスマス当日の話。どうしても「ホワイト・クリスマス」にしたくて、仕事を切り上げたのが21時。それから、車を北に走らす。といっても時間制限がある。24時を回ってはクリスマスじゃなくなる。後、3時間。京都の北部までは時間的には無理。で、滋賀県の方が期待できるという判断をした。湖岸沿いに北へ。長浜を通り過ぎた頃にチラチラと雪らしきものが。もう少しだ…と希望が膨らむ。しばらく走ると路面が白くなってきた。周りの景色も白くなってきた。時間的にここらへんが限界と車を停めて、新しく積もった雪を探し、顔を押し付ける。デスマスクの完成だ。「やったぁ〜」と時計を見たら、23時58分。なんとか、ホワイト・クリスマスの完成だ。満足気に京都に帰る。その途中で、「一体、何をしとるんやろ…」と我に返る。空しいというか、バカバカしいというか、なんともいえない気持ちで帰りつく。あくる日、職場でその話をしたら、「・・・」という反応だったが、「こんな時間の過ごし方も楽しい」と何故か満足している自分がいた。
カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
今日はクリスマス。メリークリスマス。よいクリスマスを!…ということで、今回のお話はおしまい。どうも、おやかまっさんどした。
贈り物をもらって返礼しないこと。「いつも結構なもんいただきまして、モライズテで、すんまへん」「貰い」に「捨て」をつけた。モライズテは「貰いっ放し」ということ。客が手土産を持参し、「しょうもない物どすけど、どうぞお納めやしとくりゃす」というと「それはそれは、そんなら辞儀なしに頂戴します」とあいさつする。ジギナシニは「遠慮なしに」という意味。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
クリスマス
今日はクリスマス。「クリスマスの思い出は…」と考えると、すんなりと出てくるのはふたつ。
カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
ひとつは、イヴの話。数年前のことだけど、仕事をしていたら、メールが届いた。「誰だろう…」と思って開いて見ると、仕事絡みで出会った「Y」さんから。仕事絡みといっても、それは最初だけであり、仕事を超えての付き合いというか、「友だち」になっていた。そのメールのやりとりは、
「何してる?」
「んっ!? 仕事してるで」
「おんなじ。で、今、夜食にカレー食べてる。イヴの夜だというのに…」
「そっかぁ、今夜はイヴやなぁ。イヴの夜にお互い仕事か。でも、そっちはカレー食べてるんや。こっちはまだなんも食べてへん」
「そりゃ、また、悲しい話やな。カレーを食べれてるだけでも幸せということか…な」
「そやで、まだマシやん。お腹すいてきたわ」
「ところで、できた?」
「ん〜…もうちょい。日付変更線までには終わって帰りたい。明日のこともあるし…」
「そやなぁ、明日もあるもんな。こっちも日付変更線手前で終わることにする」
「そうしぃ、後は、明日の話や」
という内容だったように記憶している。イヴの夜、特にこれっといった予定がなくても、お互い仕事ということで感情を分かち合ったひと時だった。翌日の25日は仕事の打合せで「Y」さんと会い、昨夜のメールの話で盛り上がった。その翌年のイヴの夜に、また「Y」さんからメールが届いた。「今年も仕事。けど、カレーは食べてない」というものだった。こんな何気ないやりとりが心地よいイヴの夜の思い出。ちょっと侘しい気もするが、楽しいひと時だった。
カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
もうひとつは、随分前のクリスマス当日の話。どうしても「ホワイト・クリスマス」にしたくて、仕事を切り上げたのが21時。それから、車を北に走らす。といっても時間制限がある。24時を回ってはクリスマスじゃなくなる。後、3時間。京都の北部までは時間的には無理。で、滋賀県の方が期待できるという判断をした。湖岸沿いに北へ。長浜を通り過ぎた頃にチラチラと雪らしきものが。もう少しだ…と希望が膨らむ。しばらく走ると路面が白くなってきた。周りの景色も白くなってきた。時間的にここらへんが限界と車を停めて、新しく積もった雪を探し、顔を押し付ける。デスマスクの完成だ。「やったぁ〜」と時計を見たら、23時58分。なんとか、ホワイト・クリスマスの完成だ。満足気に京都に帰る。その途中で、「一体、何をしとるんやろ…」と我に返る。空しいというか、バカバカしいというか、なんともいえない気持ちで帰りつく。あくる日、職場でその話をしたら、「・・・」という反応だったが、「こんな時間の過ごし方も楽しい」と何故か満足している自分がいた。
カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
今日はクリスマス。メリークリスマス。よいクリスマスを!…ということで、今回のお話はおしまい。どうも、おやかまっさんどした。
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おやかまっさん のぶとい 2009/12/23 12:00 am
のぶとい
図太い。ずうずうしい。「おとなしそうに見えてなかなかノブトイ男やな」「野太い」は当て字。江戸時代から使用。箆太いから。箆は矢立・矢柄。ノホーズナも「図太い」ことである。横柄な、傍若無人なの意も。「ノホーズナあきないしてるな」ノホーズは「野風俗」から。風俗の卑しいこと。江戸時代初期には「のふず」と記された。肝が太い、横着なの意味であった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
ブログ
「ブログにコメントが寄せられるのは嬉しいが、その数が運命を左右するとしたら…という記事を新聞で見た。関西地区を中心に放送されている毎日放送の深夜バラエティ番組「ロケみつ」の話だ。この番組は、ブログのコメント数を基に、サイコロの出た目に応じて資金を決定する「西日本横断ブログ旅」という企画のものだ。2008年夏からの「関西縦断ブログ旅」、09年1月からの「四国一周ブログ旅」に続く第3弾となっている。第3弾は鹿児島を目指す。ブログを毎日2回確認し、サイコロを振る。出た目が3〜5ならコメント数と同額の現金が支給。6なら10倍に。2なら10分の1、1なら全額没収。資金は交通費や宿泊費にあてがうから、サイコロを振るのも勇気がいる。時々見るが、そのハラハラドキドキ感がいい。
カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
さて、番組のお話ではなく、ブログをしている人なら誰しも気になるのが、コメント数やアクセス数だろう。このフォトヴィレッジも開始当時は気になって仕方がなかった。一日に何回もブログを開いてしまう。また、更新するのも半分は義務とか仕事的な存在になってしまったこともあった。つまり「更新したい」ではなく「更新しなければ」という意識が出てきてしまう。それが、日常習慣になると気がとても楽になる。振り返ってみると、日常の習慣になるまで、結構時間がかかった。
カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
今、社会問題のひとつとして、インターネットによる「学校裏サイト」がある。いわゆる「ネットいじめ」だ。ここに陥る子どもは「自ら見てしまうからだ」と学者や研究者は言う。学者や研究者の言うことは理解できるが、「見てしまう」「気になる」という人間の欲求や心理をどのように抑制すればいいのか。結局は「自らの見ないという強い意志が必要だ」とされてしまう。分かっているけど、やめらいのが人間なのに…。もともと、ブログは、ウェブ上の記録を意味する「ウェブログ」の略で、個人の日記などを、簡便な方法で作成し、公開することができるウェブサイトの総称だ。確かに定義は、個人の日記には違いないが、誰かが読んでいる、と考えた場合、書き方が変わる。読ませるために書いてしまうのが心理的な実情だ。そこに飾りや見栄が出てしまう。このフォトヴィレッジも、そういう感が払拭できないところが多々あるのは否めない。
カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
そこで新たに「おやかまっさん」というカテゴリをつくり、本来のブログのあり方って…というのを考えてみたいと思った。「見てもらう」ために、色々調べて掲載するのもよいし、実際に楽しい。しかし、「見てもらう」「見られる」「コメントをもらう・もらえる」という意識を横においた場合、ブログの内容はどう変化するのか…そんなところが気になった。また、掲載する写真も考えてみると、「更新するために」撮ったものが大半だ。情報配信的な内容の場合は、その記事に添った写真が必要。個人のつぶやき的な内容に掲載するのは「どんな写真でもよい」。しかし、情報の伝達には、文字(文章)以外に、写真の存在は大きいのも確かだ。
カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
色々なことをキッチリと定義してしまう悪い癖があるが、そんなこんなの思い悩みから、フォトヴィレッジを「情報配信カテゴリ」と「勝手気ままカテゴリ」の区別をしっかりと存在させ、継続していくということを少ししたくなった。さてさて、この先どうなることやら…ということで、今回のお話はおしまい。どうも、おやかまっさんどした。
図太い。ずうずうしい。「おとなしそうに見えてなかなかノブトイ男やな」「野太い」は当て字。江戸時代から使用。箆太いから。箆は矢立・矢柄。ノホーズナも「図太い」ことである。横柄な、傍若無人なの意も。「ノホーズナあきないしてるな」ノホーズは「野風俗」から。風俗の卑しいこと。江戸時代初期には「のふず」と記された。肝が太い、横着なの意味であった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
ブログ
「ブログにコメントが寄せられるのは嬉しいが、その数が運命を左右するとしたら…という記事を新聞で見た。関西地区を中心に放送されている毎日放送の深夜バラエティ番組「ロケみつ」の話だ。この番組は、ブログのコメント数を基に、サイコロの出た目に応じて資金を決定する「西日本横断ブログ旅」という企画のものだ。2008年夏からの「関西縦断ブログ旅」、09年1月からの「四国一周ブログ旅」に続く第3弾となっている。第3弾は鹿児島を目指す。ブログを毎日2回確認し、サイコロを振る。出た目が3〜5ならコメント数と同額の現金が支給。6なら10倍に。2なら10分の1、1なら全額没収。資金は交通費や宿泊費にあてがうから、サイコロを振るのも勇気がいる。時々見るが、そのハラハラドキドキ感がいい。
カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
さて、番組のお話ではなく、ブログをしている人なら誰しも気になるのが、コメント数やアクセス数だろう。このフォトヴィレッジも開始当時は気になって仕方がなかった。一日に何回もブログを開いてしまう。また、更新するのも半分は義務とか仕事的な存在になってしまったこともあった。つまり「更新したい」ではなく「更新しなければ」という意識が出てきてしまう。それが、日常習慣になると気がとても楽になる。振り返ってみると、日常の習慣になるまで、結構時間がかかった。
カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
今、社会問題のひとつとして、インターネットによる「学校裏サイト」がある。いわゆる「ネットいじめ」だ。ここに陥る子どもは「自ら見てしまうからだ」と学者や研究者は言う。学者や研究者の言うことは理解できるが、「見てしまう」「気になる」という人間の欲求や心理をどのように抑制すればいいのか。結局は「自らの見ないという強い意志が必要だ」とされてしまう。分かっているけど、やめらいのが人間なのに…。もともと、ブログは、ウェブ上の記録を意味する「ウェブログ」の略で、個人の日記などを、簡便な方法で作成し、公開することができるウェブサイトの総称だ。確かに定義は、個人の日記には違いないが、誰かが読んでいる、と考えた場合、書き方が変わる。読ませるために書いてしまうのが心理的な実情だ。そこに飾りや見栄が出てしまう。このフォトヴィレッジも、そういう感が払拭できないところが多々あるのは否めない。
カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
そこで新たに「おやかまっさん」というカテゴリをつくり、本来のブログのあり方って…というのを考えてみたいと思った。「見てもらう」ために、色々調べて掲載するのもよいし、実際に楽しい。しかし、「見てもらう」「見られる」「コメントをもらう・もらえる」という意識を横においた場合、ブログの内容はどう変化するのか…そんなところが気になった。また、掲載する写真も考えてみると、「更新するために」撮ったものが大半だ。情報配信的な内容の場合は、その記事に添った写真が必要。個人のつぶやき的な内容に掲載するのは「どんな写真でもよい」。しかし、情報の伝達には、文字(文章)以外に、写真の存在は大きいのも確かだ。
カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
色々なことをキッチリと定義してしまう悪い癖があるが、そんなこんなの思い悩みから、フォトヴィレッジを「情報配信カテゴリ」と「勝手気ままカテゴリ」の区別をしっかりと存在させ、継続していくということを少ししたくなった。さてさて、この先どうなることやら…ということで、今回のお話はおしまい。どうも、おやかまっさんどした。
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おやかまっさん はだはだ 2009/12/20 12:00 am
はだはだ
ぴったり合わないこと。反りが合わないこと。「兄弟の気持ちがハダハダで、どもならんな」「クラスの中で意見がハダハダでまとまらへん」「肌々」と書く。肌は皮膚、気質、気性のこと。ハダを重ねても、離れ離れになるさきを示す。江戸時代から使用。京北や丹波では、山椒魚をハダカスという。「今はハダカス捕ったらあかんけど、昔はよう食べたな」 ハダカスは肌(はだか)に基づく。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
羅漢
今まで「今京都」のカテゴリで掲載していたけど、「おやかまっさん」の方がいいと思うので、今日から変更。
地蔵物語(288)
今まで「今京都」のカテゴリで掲載していたけど、「おやかまっさん」の方がいいと思うので、今日から変更。
ぴったり合わないこと。反りが合わないこと。「兄弟の気持ちがハダハダで、どもならんな」「クラスの中で意見がハダハダでまとまらへん」「肌々」と書く。肌は皮膚、気質、気性のこと。ハダを重ねても、離れ離れになるさきを示す。江戸時代から使用。京北や丹波では、山椒魚をハダカスという。「今はハダカス捕ったらあかんけど、昔はよう食べたな」 ハダカスは肌(はだか)に基づく。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
羅漢
今まで「今京都」のカテゴリで掲載していたけど、「おやかまっさん」の方がいいと思うので、今日から変更。
地蔵物語(288)
今まで「今京都」のカテゴリで掲載していたけど、「おやかまっさん」の方がいいと思うので、今日から変更。
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おやかまっさん はしじかどすけど 2009/12/18 12:00 am
はしじかどすけど
端近なところですけれども。「ハシジカドスケド、おかけやしとくれやす」 奥座敷へ招き入れるほどでない客に、玄関や縁先で対応するときにいう。「ハシジカドスケド、どうぞおざぶをあてとくれやす」と座布団を勧める。端近は家の内で端に近いところ。上がり口。『源氏物語』賢木の巻に「端近の席に座る」と。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
節度のある服装
京ことばで「お邪魔しました」という意味の「おやかまっさん」という言葉で新しいカテゴリを作ることにした。「今京都」や「天を仰いで思うこと」とは違う何かを綴りたいと考えからである。どれだけのことが綴れるか、どれだけ続けることができるか不安はあるが、今までと違う何か、本音のあたりのことを気にせずに綴れれば…と考えている。
さて、最近は社会風潮から「職場における特に女性の制服」を強制しない職場が増えている。そういう職場は、制服を強制しない変わりに「社会人として節度のある服装に心がけること」とか「執務に影響のない服装に心がけること」とかの指示がされている。職場における女性の服装が自由になるのはいいことだと思うが、「ちょっと待ってよ、その格好はないやろ!」と感じることがある。
今の時季であれば、ブーツがそのひとつ。仕事中でもブーツのままというのは「どうなん?」と、聞きたくなる。「ファッションだ」と言われれば、「確かにファッションだ」と否定はできない。しかし、ブーツのままで応対されと、とてもイヤな気になる。訪問先などで、「こちらでございます。ご案内します」と先導される場合でも、「ボッコ、ボッコ」とブーツの後をついていくこともシバシバ。「しばらくお待ちください」と湯茶の接待もブーツのまま。また、建物の中を歩いていると、ボッコ、ボッコと後から足音が。『この音はブーツや』と心の声がつぶやく。『ここは街中ではない、建物の中…』と自問自答。そんな自問自答をさえぎるように、ボッコ、ボッコという音がついてくる。『なんで、同じ方向…』と、少しイライラが増す。それでも、ボッコ、ボッコとついてくる。『あぁ、耳障りだ。その音どうにかせぇよ、かなん』とさらにイライラが増す。
「社会人として節度のある服装に心がけること」「執務に影響のない服装に心がけること」という意味を理解していない。自分の感性が判断基準ではなく、他人がどう思うかということを考えない社会人が増えてきている。接待しなければならない相手は、若者であることが少ない。ほとんどが自分より年上の方だ。その方々が、ブーツのままの接待を許容・寛容するだろうか。ちょっと考えれば分かる。しかし、ブーツのままなのだ。そういう会社は全体的に指導がなっていないという陰の評価を受けてしまう。また、その人は社会人として軽く見られてしまい、結局は損をすることになる。実際にそんな話を耳にしたことがある。また、光り物(飾り物)も気になる。ネックレス、ブローチ、ピアス、イヤリング、指輪など。ポイントとしてつけているのはいいが、指輪も二つ以上しているのはちょっと気になる。最近ではネイルアートや付け爪も。
「セクハラ」という言葉が社会権を持った頃から、男性から見た女性に対する「イケテナイ注意」が特に激減したのではないか。結果、イケテルと勘違いしている女性を増殖させているのではないか。この社会現象は、ある意味、とても意地悪な男性たちを作り上げることにもなっている。本当は「イケテナイ」のに、「イケテナイ」と言うと、「セクハラ」だと言われしかなん、ということから、男性は女性に対して本音を隠す。 「イケテナイ」時は「イケテナイ」と注意し合える人間関係を作り上げるのも困難な環境になったものだ。この先、自分の服装関係を誰にチェックして貰えばいいのか、また、人間関係がどうなっていくのだろう、と気になる。ちょっとした気遣いで損をしない自分を維持したいものだ…ということで、今回のお話はおしまい。どうも、おやかまっさんどした。
端近なところですけれども。「ハシジカドスケド、おかけやしとくれやす」 奥座敷へ招き入れるほどでない客に、玄関や縁先で対応するときにいう。「ハシジカドスケド、どうぞおざぶをあてとくれやす」と座布団を勧める。端近は家の内で端に近いところ。上がり口。『源氏物語』賢木の巻に「端近の席に座る」と。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
節度のある服装
京ことばで「お邪魔しました」という意味の「おやかまっさん」という言葉で新しいカテゴリを作ることにした。「今京都」や「天を仰いで思うこと」とは違う何かを綴りたいと考えからである。どれだけのことが綴れるか、どれだけ続けることができるか不安はあるが、今までと違う何か、本音のあたりのことを気にせずに綴れれば…と考えている。
さて、最近は社会風潮から「職場における特に女性の制服」を強制しない職場が増えている。そういう職場は、制服を強制しない変わりに「社会人として節度のある服装に心がけること」とか「執務に影響のない服装に心がけること」とかの指示がされている。職場における女性の服装が自由になるのはいいことだと思うが、「ちょっと待ってよ、その格好はないやろ!」と感じることがある。
今の時季であれば、ブーツがそのひとつ。仕事中でもブーツのままというのは「どうなん?」と、聞きたくなる。「ファッションだ」と言われれば、「確かにファッションだ」と否定はできない。しかし、ブーツのままで応対されと、とてもイヤな気になる。訪問先などで、「こちらでございます。ご案内します」と先導される場合でも、「ボッコ、ボッコ」とブーツの後をついていくこともシバシバ。「しばらくお待ちください」と湯茶の接待もブーツのまま。また、建物の中を歩いていると、ボッコ、ボッコと後から足音が。『この音はブーツや』と心の声がつぶやく。『ここは街中ではない、建物の中…』と自問自答。そんな自問自答をさえぎるように、ボッコ、ボッコという音がついてくる。『なんで、同じ方向…』と、少しイライラが増す。それでも、ボッコ、ボッコとついてくる。『あぁ、耳障りだ。その音どうにかせぇよ、かなん』とさらにイライラが増す。
「社会人として節度のある服装に心がけること」「執務に影響のない服装に心がけること」という意味を理解していない。自分の感性が判断基準ではなく、他人がどう思うかということを考えない社会人が増えてきている。接待しなければならない相手は、若者であることが少ない。ほとんどが自分より年上の方だ。その方々が、ブーツのままの接待を許容・寛容するだろうか。ちょっと考えれば分かる。しかし、ブーツのままなのだ。そういう会社は全体的に指導がなっていないという陰の評価を受けてしまう。また、その人は社会人として軽く見られてしまい、結局は損をすることになる。実際にそんな話を耳にしたことがある。また、光り物(飾り物)も気になる。ネックレス、ブローチ、ピアス、イヤリング、指輪など。ポイントとしてつけているのはいいが、指輪も二つ以上しているのはちょっと気になる。最近ではネイルアートや付け爪も。
「セクハラ」という言葉が社会権を持った頃から、男性から見た女性に対する「イケテナイ注意」が特に激減したのではないか。結果、イケテルと勘違いしている女性を増殖させているのではないか。この社会現象は、ある意味、とても意地悪な男性たちを作り上げることにもなっている。本当は「イケテナイ」のに、「イケテナイ」と言うと、「セクハラ」だと言われしかなん、ということから、男性は女性に対して本音を隠す。 「イケテナイ」時は「イケテナイ」と注意し合える人間関係を作り上げるのも困難な環境になったものだ。この先、自分の服装関係を誰にチェックして貰えばいいのか、また、人間関係がどうなっていくのだろう、と気になる。ちょっとした気遣いで損をしない自分を維持したいものだ…ということで、今回のお話はおしまい。どうも、おやかまっさんどした。