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rrbのブログ - 2009/05のエントリ

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天を仰いで思うこと ももける 2009/05/29 12:00 am

もける
布・和紙・編み物などの表面がこすれて毛羽立つこと。「この古文書の紙がモモケテあんじょう読めへんな」「何回も縫い直ししてるうちにモモケテしもた」 ボボケルとも。モモ、ボボは毛羽立つさまを形容する擬態語に基づく。東京のボヤケルに対していう。平安時代には「あつごゆ」といい、厚く膨らんでいるの意味。『枕草子』には「くるみ色といふ色紙のあつごえたるを」とある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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方山話(52) ちょっと気になる「ことば」の話
全然いい



「全然いい」「全然平気だ」と最近よく使う。「全然」は昔から否定と呼応する形で使われてきた。歴史的にみると「全然」は江戸時代の後期の頃に中国の白話(はくわ)小説(口語体で書かれた小説)に使われていたものを取り入れるようになったもので、「全く然り」(まったくしかり)という訓がそのまま当てはまるものだった。したがって、「まったく」「すっかり」とか「まるっきり」などの訓もあてられていたようだ。明治時代以降、「全然…ない」「全然…ずに」などと否定と呼応する用法とともに、肯定の表現にも使われている。「全然」が「違う」「別だ」「ダメだ」「間違いだ」「反対だ」など、内容的に否定的な要素、マイナスの要素を含む語にかかっていくものは、打ち消しとの呼応を表す副詞と同様に考えることができ、実際に古くから使われている。



次に、現在、「全然いい」とか「全然平気だ」というように「全然」が「とても」「非常に」という意味で普通に使われるようになっているのかどうか。多くの国語辞典において、こういう用法が「俗語」として挙げられているが、それが程度を表す副詞として、単に「とても」「非常に」という意味で使われているかというと、かなり疑問である。相手が天気を心配しているときに自分がすでに天気予報を確認していて「きょうは全然いい天気だよ」といったり、自分の服装に自信が持てず、気にしている相手に対して「その服、全然似合っているよ」といったりするように、否定的な状況、あるいは、心配な状況・懸念をつくがえし、まったく問題がないという場合に用いるのが普通である。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

「大丈夫?」と聞かれて、「全然平気!」と答えるのも同様。つまり「あなたが思っていることとは違って」という限定で使用するのがよさそうだ。つまり「まったく問題なく」の意であり、「とても」「非常に」とは明らかに違う。その他に「全然」は「こっちのほうが全然いい」とか「さっきより全然よくなった」というようにも使用されるが、これは「断然」との類似から広まったのだろう。「全然」を肯定表現で使うのは必ずしも間違いではなく、否定的な状況や懸念をくつがえして「まったく問題なく」の意味で使う用法や、二つの物事を比較して使う用法は、現在、一般化しているといえるのかもしれない…と、天を仰いで思うこと。
★前回のちょっと気になる「ことば」の話はここ(←クリック)


 

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天を仰いで思うこと たも 2009/05/27 12:00 am


「音頭してタモ(音頭をとってください)」「食べてタモレ(食べてください)」「してください」の意味。洛北で使用。給(たも)るのめ命令形に基づく。目下の者に「こうしてタモ」のように言い、御所ことばで明治時代にも用いた。『曽根崎心中』に「一部始終を聞いてたも」とある。御所ことばにある「出ましゃてイタダカサレ(出てくださいませ)」のイタダカサレは、目上に話す丁寧な表現である。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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方山話(37)
ぼやき漫才に思うこと (エキサイト 2008年5月13日掲載)



かつて、世相を槍玉に上げては、とんちんかんな難癖を付ける「ぼやき漫才」というのがあった。その第一人者といえば、人生幸朗と生恵幸子の夫婦コンビだという。1982(昭和57)年に幸朗が他界した後には、継ぐ者が殆どおらず廃れてしまった。世相や社会の出来事にツッコミを入れて、ボヤイたり、思い切りこきおろしたりして大いに笑わせた。
その進行の一例は、
幸朗:「浜の真砂は尽きるとも世にボヤキの種はつきまじ」と石川五右衛門の辞世の句を捩る
幸子:「キザなこと言うなこのハナクソ!」とすかさず突っ込む。
幸朗:「わたしのこと、みなボヤキやあ、ボヤキやあ言うてねぇ」
幸子:「当たり前や。誰かて言わはるわ。ボケ!」
幸朗:「しかし、みなさん、これは私がボヤクのやのうて、今の世の中が私をボヤかしまんねん」
というパターン。
そして「まぁ皆さん聞いてください」と聴衆に語りかけ、その当時の世相・ニュースを斬り始める。今、ボヤキたくなることがあまりに多い世相となってしまったように思う。先行き不透明になってきた年金問題も、幸朗師匠が生きていたらネタにしたに違いないだろう。「宙に浮き、消えてほしいのは社会保険庁」とでも言ったか、どうか。



偽装問題も、ボヤカずにはおられないだろう。食品表示の偽装に始まって、耐火建材や橋梁型枠の品質偽装があった。これで終わりかと思ったら、製紙業界の有力企業が再生紙の古紙配合率を偽装していたことが明るみに出た。こちらは「一流企業がいったい何してんのや」「頭下げるだけやったら、だれでもできる」などのセリフが飛び出すのだろうか。いや、もっと鋭いツッコミが出たかもしれない。
世界的な投機マネーのために原油や小麦が高くなり、庶民の台所にも影響が大きい。米海兵隊員の少女暴行事件も許せない。「ええ加減にせんかい。ほんまに怒るで」という声が聞こえてきそうだ。天国で「ボヤキより、怒りぶちまけの漫才がいるんやろうな」とボヤイているのかもしれない。
そして、再び、高級料亭「船場吉兆」の客の食べ残した食材を別の客に出していたことが明らかになった。本店を含む全料亭で使い回しが行われていた。ボヤキが最高潮に達した時、幸朗の「責任者出てこい!」のセリフとともに締の一節を述べる。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

「笑え、笑え、笑う門には福来る。皆様のご健康とご発展とを心よりお祈り申し上げ、ボヤキ講座予定終了でございます」  この「責任者出てこい!」のセリフによってストレスを解消した「ぼやき漫才」。責任者が出てきても、その口から出る言葉は眉唾物が多く、ストレス解消にはならないかも…。今、世間では新型インフルエンザの発症にピリピリとした状態。一時の間でも「笑い」が欲しい…と、天を仰いで思うこと。


 

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天を仰いで思うこと かにここ 2009/05/25 12:00 am

にここ
「約束の時間にカニココ間に合うてよかった」「お金がのうてカニココや」のように「とにかく」「ぎりぎり」の意味で使用。西陣・室町を中心に用いた。語源は「かにかく」。「かにかく」の語が衰え、トニカクに変わっていくとともに使用しなくなった。名詞としては、新生児の初めて出す便も、臨終の人のそれもカニココである。「カニココが出たしもうあかんわ」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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方山話(12)
髪にまつわる話 (エキサイト 2008年2月27日掲載)



「今京都」で掲載した「髪にまつわる話」の締めくくり。17世紀のフランス国王、ルイ13世は心労ゆえに薄毛となり、22歳でカツラをつけたという。廷臣たちがそれに倣い、カツラはやがて上流階級の正装として各国に広まったという。時は移れど、世に「自分を変えたい」願望は尽きない。「ハゲを隠しているという意識につきまとわれているかぎり、変貌できない」とクギを刺す本もあると聞く。隠せぬままに変わり損ねた落胆は大きい。


(京都府南丹市美山町)

育毛ケアで効果が薄かった男性が大手業者を訴え、430万円を返して貰う和解が成立したという記事が以前に新聞に載っていた。業者は「必ず生えるとは言っていない」と反論したが、原告の強い不満に折れたということだ。毎週の頭皮ケアや補助食品に、この男性は約680万円と4年の時を費やしたという。生える保証のない育毛にこれほどお金がかかり、その出費と手間をいとわぬ客層があることに驚く。あるべき物が無いのを恥じる心に、業者は手を差し伸べる。毛が戻って前向きに変われるのならいいが、見てくれや世間体に追われる人生はもったいない。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

頭髪の気になり具合は「自分の人生をどの程度自分のものにできたかを測るものさし」でもあるという。人は交通事故を笑えないが、バナナの皮で転べば笑う。なぜなら、大したことではないからだ。ここに精神的にハゲを克服するポイントがあるという。神に頼るのでもなく、薬に頼るのでもない。「大したことはない」と思えることこそ、体裁ではなく内面から自分を変るポイントだということだ。なるほど…と、天を仰いで思うこと。
★「今京都」で掲載した髪にまつわる話は、ここここここ


 

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天を仰いで思うこと よそう 2009/05/22 12:00 am

そう
「ご飯ヨソテ」「味噌汁お椀にヨソウ」のヨソウは「装う」からで、準備する、支度することに由来。身なりを飾る意になり、飲食物を整え、用意することから容器に入れる意味へ広がった。室町時代のことばを集めた『日葡辞書』にも記される。『平家物語』には「飯うづたかくよそひ」とある。また「ご馳走」の「馳走」はもとは走り回ること。準備に奔走し、客をもてなすことからおいしい食物の意に。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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のネタ雑学(41)
ツバメはなぜ去年の巣を覚えている?



前の巣を使うのは親ツバメ。その確率は50〜60%といわれている。ツバメは高いところから見た景色をちゃんと覚えているという。巣をつくるときに、枯れ草の切れ端や泥の固まりを何十回も運ぶから、巣の場所をしっかり覚えることができるのだろう。



渡りのときも、この記憶がしっかり役立つ。ツバメは体の中に、自分だけにわかる体内時計と呼ばれるものを持っていて、太陽や星座を見ては「この時刻に太陽がこの方角に見えるから、こちらが南」といった判断をしながら飛んでいる。やがて巣のある街に近づくと、去年の記憶が呼び起こされて、前に使っていた巣にたどりつくというわけ。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

ただし、空が曇っているときは、方向が決められず群れがバラバラになってしまうことがあり、途中で力尽きててしまうのもいるというので、この程度の確率になるのだろう。なお、去年生まれた若いツバメは、新しい巣をつくる。家の軒下にツバメが巣をつくったら、来年も帰ってくることを信じて、そのままにしておくのがよい…と、天を仰いで思うこと。
★前回はここ(←クリック)


 

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天を仰いで思うこと ごもくをほかす 2009/05/20 12:00 am

もくをほかす
「ゴモク」はごみ、「ホカス」は捨てるの意。4月、京都に住み始め、「学生はん、そこのゴモク、ホカシトイテンカ」といわれ、きょとんとして分からない若者も多い。ゴミは「ご」の実のこと。平安時代から松の落葉を「ご」といい、燃料にした。芭蕉の句に「ごを焚いて手拭(てぬぐい)あぶる寒さかな」 ホカスは「放下す」の意味からで、京都から大阪にかけて「ゴモクをホカス」の使用地域がみられる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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方山話(51)  ちょっと気になる「ことば」の話
よろしかったでしょうか



最近、ファミリーレストランなどで、「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」と使われる。注文が以上でいいかを聞いているのだから、「ご注文は以上でよろしいでしょうか」というように、現在形でいいのではないか。「これでよいか」は現在のことについての評価(良し悪し)を聞いているものであり、「これでよかったか」は過去のことについての評価を尋ねているものである。だから、現在している注文について「よかったか」と訪ねるのはおかしいのではないかという疑問がでてくる。



「よい(よろしい)」と「よかった(よろしかった)」の違いについて、考えてみると、「よい」は現在のことについての現在における評価を表わす。「注文はこれでよい」は、現在注文をしている、その注文内容はこれでよい、ということだ。それに対して、「よかった」は、過去のことについての現在における評価を表わす。「昨日の注文はよかった」は、昨日という過去において行った注文について現在振り返ってよかったと評価している。つまり、「よい」と「よかった」は評価の対象は現在のことと過去のことで違うが、評価の時点はいずれも現在で共通だということだ。


(神戸) カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

だから、「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」の「ご注文」が過去のこととみなすことができれば許される表現ということになる。注文を色々して、し終わった、それは現在の注文ではあるけれど、し終わった過去の注文でもある。注文が過去のものとみなされれば「先ほどのご注文はあれでよろしかったでしょうか」に準ずるような表現として許されるのではないか。この表現がでてくる論理、この表現にあまり違和感を持たないという人の論理はこの辺にあるのではないかと考える。
そうそう、もうひとつ。「あなたは○○さんでいらっしゃったでしょうか」というのも聞く。この場合、「いらっしゃった(わよね)」と相手に確認する用法に「でしょうか」という相手に質問をする表現の混在となるので避けるべきだろう…と、天を仰いで思うこと。
★前回のちょっと気になる「ことば」の話はここ(←クリック)


 

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