rrbのブログ - 2009/08/08のエントリ
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今京都 しょうびんな 2009/08/08 12:00 am
しょうびんな
「ちょっとショービンナものどすけど、食べておくれやす」 貧弱な、質素なの意。少分から。室町時代のことばを集めた『日葡辞書』には「ショーブン。小さな部分、または少量のもの」とある。『宇治拾遺物語』にも「その値少分をも取らせ給はずなりぬ」と出てくる。「お粗末ですが」の意味のほか、「式典に飾り花もないのは、ショービンナ(物足りない)ことどす」のようにも言う。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ) (旧フォトヴィレッジ 2007年9月19・20日掲載)
「子子子子子子子子子子子子」と書いてなんと読む? 「ねこの子のこねこ、ししのこのこじじ」と即座に答えたとして、天性の頭のキレと博学ぶりが今に伝わるその人の名は小野篁(おののたかむら)。冒頭の出題は、平安時代初期の嵯峨天皇で「宇治拾遺集」巻三に出てくる。小野篁は遣唐副使に選ばれながら、唐に渡る船が気に入らないと言い争い、挙句は仮病を使って乗船拒否。果ては遣唐使の風刺までしたため嵯峨天皇の怒りを買い、隠岐に島流しにされることもあった。
わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟(古今集)
これは隠岐に流されるそのとき、難波津(なにわづ)で別れの心情を詠った有名な歌。彼はまた歌人としても天下に並ぶものはいないとされた。生まれも才能も非の打ち所が無い高潔な人物だが、ミステリアスな伝説に包まれている。

「昼間は朝廷に勤める参議、夜は冥界の閻魔庁へ勤める高官として、閻魔大王に仕えていた」という。昼間と夜で、あの世とこの世を自由に行き来して暮している。その冥界への入口が、葬送の地であった鳥辺野(とりべの)、珍皇寺(ちんのうじ)の裏にある井戸だという。井戸のそばに高野槇(こうやまき)が生えていて、その槇の枝を伝って、彼は井戸へ入っていくという。今もお盆には京の人々は六道さんへ精霊迎えに行く。「水向け」に使った高野槇を持って帰り井戸へ吊るしておくと、その井戸が冥界へ通じる道となり、精霊がその道を伝って帰ってくるといわれている。

では、あの世からこの世へ、毎日戻ってくるときの出口はどこかといえば、これが入口とは随分離れた西の葬送地、化野近くの嵯峨六道の辻。今は廃寺となっているが、かつてあった嵯峨野福生寺(さがのふくしょうじ)の井戸だということだ。京の人々は、入口の珍皇寺の道筋を「死の六道」といい、出口にあたる福生寺の道筋を「生の六道」と呼んでいる。福生寺は現存しないが、そばにある嵯峨釈迦堂(清涼寺)境内の薬師寺に祀られる小野篁像と地蔵菩薩像は、福生寺から移した遺仏であるという。また福生寺跡からは七基の井戸が発掘されている。

毎年お盆が来ると六道の辻には地獄絵や修羅や餓鬼や閻魔さんが堂々とよみがえり、幼い子どもたちも地獄絵の前で固唾をのんで絵解きに聞き入っている。子どもたちの神妙な顔を見ていると、あの世の存在をしらせたかった小野篁の満悦顔が目に浮かぶ。

平安前期、閻魔(えんま)大王の右腕だった朝廷の高官がいた。参議の小野篁(おののたかむら)はある夜、亡き母が地獄で苦しむ姿を夢に見る。心配になり霊感のままに東山の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)を訪れ、冥界(めいかい)に通じる井戸を見つけ、井戸に入って閻魔大王に会い、苦しむ母を極楽へ救い出す。以後、篁は日中は朝廷に仕え、夜は閻魔庁の冥官を務め裁判の弁護役となって罪人を救った。と「今昔物語集」などに伝えられる。

その「井戸」は京都市東山区の六道珍皇寺本堂裏に今もひっそりと残る。篁は遣隋使の小野妹子の子孫で、生没年が802〜852年と明確な歴史上の人物。皇太子の家庭教師も務めた学者で歌人、190cmの大柄な武人でもあった。遣唐副使に任ぜられた際、「もう唐から習うことはない」などと制度自体にも反対し、正使とも争って嵯峨上皇の怒りをかった気骨の人。篁は隠岐へ流刑となったが、小倉百人一首にある「わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり船」は、このときに詠んだ歌。隠岐では地蔵像を彫って日々を過ごし2年後に帰京、参議となる。

(本堂裏の冥界の井戸)
なぜこの井戸が冥界の入り口とされたのか。当時、東山のふもとには庶民の風葬地・鳥辺野(とりべの)があり、この地は「六道の辻」と呼ばれ、生死の境だと信じられていた。篁は母の供養のため、寺の整備に私財を寄進し、同寺の中興開山としてまつられている。境内の閻魔堂には篁作とされる閻魔大王座像(平安前期)が篁立像(江戸期)と並んで安置されている。

(向かって左が閻魔堂の閻魔大王座像と向かって右が小野篁立像)
篁は何でもできるスーパーヒーローとして敬われ恐れられた。信仰心も厚く慈悲深かったから、冥官伝説が生まれたのでは…との推測もある。同寺は8月7日から4日間、お盆に先祖の霊をまつる「六道まいり」を営み、多くの参詣者でにぎわい、近年は京の魔界・霊界スポットの一つにも数えられる。

少し不気味な冥界の井戸は、普段は板戸の格子越しにしか見られないが、それでも一目見ようと訪れる観光客は後を絶たない…今京都。

「ちょっとショービンナものどすけど、食べておくれやす」 貧弱な、質素なの意。少分から。室町時代のことばを集めた『日葡辞書』には「ショーブン。小さな部分、または少量のもの」とある。『宇治拾遺物語』にも「その値少分をも取らせ給はずなりぬ」と出てくる。「お粗末ですが」の意味のほか、「式典に飾り花もないのは、ショービンナ(物足りない)ことどす」のようにも言う。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ) (旧フォトヴィレッジ 2007年9月19・20日掲載)
「子子子子子子子子子子子子」と書いてなんと読む? 「ねこの子のこねこ、ししのこのこじじ」と即座に答えたとして、天性の頭のキレと博学ぶりが今に伝わるその人の名は小野篁(おののたかむら)。冒頭の出題は、平安時代初期の嵯峨天皇で「宇治拾遺集」巻三に出てくる。小野篁は遣唐副使に選ばれながら、唐に渡る船が気に入らないと言い争い、挙句は仮病を使って乗船拒否。果ては遣唐使の風刺までしたため嵯峨天皇の怒りを買い、隠岐に島流しにされることもあった。
わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟(古今集)
これは隠岐に流されるそのとき、難波津(なにわづ)で別れの心情を詠った有名な歌。彼はまた歌人としても天下に並ぶものはいないとされた。生まれも才能も非の打ち所が無い高潔な人物だが、ミステリアスな伝説に包まれている。

「昼間は朝廷に勤める参議、夜は冥界の閻魔庁へ勤める高官として、閻魔大王に仕えていた」という。昼間と夜で、あの世とこの世を自由に行き来して暮している。その冥界への入口が、葬送の地であった鳥辺野(とりべの)、珍皇寺(ちんのうじ)の裏にある井戸だという。井戸のそばに高野槇(こうやまき)が生えていて、その槇の枝を伝って、彼は井戸へ入っていくという。今もお盆には京の人々は六道さんへ精霊迎えに行く。「水向け」に使った高野槇を持って帰り井戸へ吊るしておくと、その井戸が冥界へ通じる道となり、精霊がその道を伝って帰ってくるといわれている。

では、あの世からこの世へ、毎日戻ってくるときの出口はどこかといえば、これが入口とは随分離れた西の葬送地、化野近くの嵯峨六道の辻。今は廃寺となっているが、かつてあった嵯峨野福生寺(さがのふくしょうじ)の井戸だということだ。京の人々は、入口の珍皇寺の道筋を「死の六道」といい、出口にあたる福生寺の道筋を「生の六道」と呼んでいる。福生寺は現存しないが、そばにある嵯峨釈迦堂(清涼寺)境内の薬師寺に祀られる小野篁像と地蔵菩薩像は、福生寺から移した遺仏であるという。また福生寺跡からは七基の井戸が発掘されている。

毎年お盆が来ると六道の辻には地獄絵や修羅や餓鬼や閻魔さんが堂々とよみがえり、幼い子どもたちも地獄絵の前で固唾をのんで絵解きに聞き入っている。子どもたちの神妙な顔を見ていると、あの世の存在をしらせたかった小野篁の満悦顔が目に浮かぶ。

平安前期、閻魔(えんま)大王の右腕だった朝廷の高官がいた。参議の小野篁(おののたかむら)はある夜、亡き母が地獄で苦しむ姿を夢に見る。心配になり霊感のままに東山の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)を訪れ、冥界(めいかい)に通じる井戸を見つけ、井戸に入って閻魔大王に会い、苦しむ母を極楽へ救い出す。以後、篁は日中は朝廷に仕え、夜は閻魔庁の冥官を務め裁判の弁護役となって罪人を救った。と「今昔物語集」などに伝えられる。

その「井戸」は京都市東山区の六道珍皇寺本堂裏に今もひっそりと残る。篁は遣隋使の小野妹子の子孫で、生没年が802〜852年と明確な歴史上の人物。皇太子の家庭教師も務めた学者で歌人、190cmの大柄な武人でもあった。遣唐副使に任ぜられた際、「もう唐から習うことはない」などと制度自体にも反対し、正使とも争って嵯峨上皇の怒りをかった気骨の人。篁は隠岐へ流刑となったが、小倉百人一首にある「わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり船」は、このときに詠んだ歌。隠岐では地蔵像を彫って日々を過ごし2年後に帰京、参議となる。

(本堂裏の冥界の井戸)
なぜこの井戸が冥界の入り口とされたのか。当時、東山のふもとには庶民の風葬地・鳥辺野(とりべの)があり、この地は「六道の辻」と呼ばれ、生死の境だと信じられていた。篁は母の供養のため、寺の整備に私財を寄進し、同寺の中興開山としてまつられている。境内の閻魔堂には篁作とされる閻魔大王座像(平安前期)が篁立像(江戸期)と並んで安置されている。

(向かって左が閻魔堂の閻魔大王座像と向かって右が小野篁立像)
篁は何でもできるスーパーヒーローとして敬われ恐れられた。信仰心も厚く慈悲深かったから、冥官伝説が生まれたのでは…との推測もある。同寺は8月7日から4日間、お盆に先祖の霊をまつる「六道まいり」を営み、多くの参詣者でにぎわい、近年は京の魔界・霊界スポットの一つにも数えられる。

少し不気味な冥界の井戸は、普段は板戸の格子越しにしか見られないが、それでも一目見ようと訪れる観光客は後を絶たない…今京都。

