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rrbのブログ - 2009/08のエントリ

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今京都 つかまえ 2009/08/30 12:00 am

かまえ
鬼ごっこのこと。「ツカマエして遊ぼう」 公家ことばでも、ツカマエといった。江戸時代には、ツカマエボということばが使われた。『物類称呼』に「京にて、つかまえぼと云」と記されている。「つかまえる」に基づく。京都府南部ではツカマエコンボ・ツカマエオニのような形もある。一方、府北部ではオニゴトのほか、ボウ(追う)から、ボイヤイ(追い合い)・ボイヤともいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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蔵物語(275)




 

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今京都 ばったりしょうぎ 2009/08/29 12:00 am

ったりしょうぎ
京の町家によく見かけた。表の入り口のそばに取り付けられた床几(しょうぎ)。脚を折り畳むことができる。商品を並べて売るのに用いた。家の軒下など設置されている。留め金を外して下ろすと床几になる。「あの家には、まだバッタリショウギが残ってますわ」 バッタリは床机を上げ下げするさまの擬態語。昭和初期、子どもたちが並んで腰を下ろして遊んだものである。バッタンショーギともいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
★関連記事はここ(←クリック)

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王神社 (旧フォトヴィレッジ 2007年1月23〜29日掲載)
今年(2007年)の干支、イノシシの神社で知られる京都市上京区の護王神社。祭神の和気清麻呂が流刑にされた時、イノシシ300頭が現れ災難を救ったという「日本後記」の説話で有名だ。足腰の神様としても知られ、都大路を走る駅伝の強豪校やサッカーチームの選手らが願を懸けにくる。





イノシシと清麻呂、足腰のかかわりは、奈良時代の「道鏡事件」(769年)にさかのぼる。僧・弓削道鏡は称徳天皇に気に入られて法王に出世。さらに皇位を狙い宇佐八幡宮(大分県)に、にせの神託を出させた。だが清麻呂は称徳天皇の命で宇佐へ向かい「天つ日(ひ)嗣(つぎ)(後継者)は必ず皇緒を立てよ」との神託を持ち帰り陰謀をくじいた。道鏡は清麻呂に死罪をと激怒。称徳天皇が大隅(鹿児島県)へ流すにとどめた。





清麻呂は道鏡により足の筋を切られ歩けない。粗末な輿(こし)での道中、宇佐八幡宮へ立ち寄るところでイノシシ300頭が登場する。清麻呂を守るように囲み、十里の道を先導した。伝説は「猪の頭」のかぶりものを付け祭礼を営む習慣のある秦氏などが配流途中の清麻呂を助けたことから生まれたとする解釈もある。八幡宮に到着するころには清麻呂の足が治った。護王神社はイノシシとの言い伝えにかけて、足萎(な)え回復のご利益をうたう。





神護寺(右京区)から京都御苑の西へ移って121年目の同神社は「イノシシ」づくし。昨夏設けた雌雄一対の「狛(こま)イノシシ」は「畑を荒らすなど良くないイメージがあるが、愛されるには、かわいくて勢いがなくては」と表情や体の丸みにこだわった。参拝の鈴も三つに増やし「多くの人にゆっくりしていってもらいたい」と願う。





本殿左の大木の根元には、イノシシの石像を囲むように紙のイノシシのついたくし、右の大木の根元にはミニチュアののぼりが数百本もある。大勢の参拝者が足腰の健康を願って、差し込んでいく。境内にはイノシシの土鈴や絵馬、はく製がひしめき、寄贈もあってその数3000以上とか。清麻呂の進言で開かれた平安京は1200年を経てにぎわい、清麻呂を守るイノシシは今でも増え続けている…今京都。


 

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今京都 かなやすい 2009/08/27 12:00 am

なやすい
容易な。「この本はカナヤスイ文章で書いたーる」 カナナとも。「この問題はカナナヤとおもう」 平易であるのヤスシは『万葉集』から用いる。ヤサシイ(易しい、優しい)は、もと「痩せる」の意味に基づく。「身を痩せるおもい」「恥ずかしい」の古い意味から、思いやりがある、おとなしい、優美なの意になり、容易なの意になった。反対の「難しい」は、京都では東京のムズカシイに対しムツカシイと発音する。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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田神宮 (旧フォトヴィレッジ 2007年7月20日掲載)
にぎやかな四条通から新釜座町に入ると、昔ながらの風情を残す一角がある。ここは、以前に紹介した膏薬図子(←クリック)。一軒の民家を見ると、手入れが行き届いた小さな祠がある。鉄板には「史蹟(せき)神田神宮」と書かれ、「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と説明されている。



将門は桓武天皇の子孫で903(延喜3)年頃に生まれる。下総国(現在の千葉県北部など)を本拠とし、上洛して藤原忠平に仕える。関東一帯に平氏一門の間で抗争が広がり、将門は関東諸国を次々に占領。さらに朝廷に対抗し、「新皇」を名乗ったことから逆賊とされ、940(天慶3)年に反対勢力に滅ぼされる。討ち取られた首は京都の町でさらされる。



伝説によれば、将門の首は生きたように目を見開き、歯ぎしりをしたという。さらに、ある夜、突然、首が笑いだし、白い光を放ちながら、自らの胴体を求めて、東の方向へ飛び去ったと言い伝えられる。その後、天変地異が相次ぎ、将門の霊を鎮めようと、各地に首塚が築かれる。最も有名な塚が東京都千代田区大手町のオフィス街にあるという。京都の神田神宮は、空也上人が将門のために、新釜座町の地に供養道場を建てたのが始まりだということだ。



将門の評価は歴史とともに変遷する。中世には祟りを恐れられ、江戸時代には最初の武士として幕府の庇護を受ける。しかし、明治時代には再び逆賊とされ、戦後は逆に朝廷の横暴と闘った英雄となり、人気を集める。今でも、将門の首を切ったと伝えられる子孫が定期的に訪れるという。千年以上を経た今も、将門伝説は消えていない。京都の町民の反骨と優しさが現れた祠だ。この祠がある家は「いつ、なぜ、この地に建立されたかはわからないが、代々、大切に受け継いできた」と語る。平将門をしのび、地元だけではなく、関東からも参拝があるという神田神宮…今京都。


 

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今京都 せく 2009/08/25 12:00 am


「この仕事そないにセクのんか」 急ぐ。「胸ふさがる」の意の「塞(せ)き上ぐ」の「塞く」に基づく。せき止めて逆流させることから。「セイテセカンことはない」は文字通りの意味は「急ぐようでそう急いですることではない」というのだが、真意はあんまりのんびりしてはいられないこと。ちなみに、セキマイは急ぎのことで、「急き前」の意味。気がセケルともいう。胸せく思いになることから急ぐことをいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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和長年戦没遺蹟 (旧フォトヴィレッジ 2007年7月21日掲載)
京都市上京区の西陣・聚楽学区の大宮通一条下ルに名和公園がある。この静かな児童公園に、巨大な石碑が立っている。南北朝時代に京都で戦死した鳥取県の武将・名和長年の名が刻まれた碑は、戦時中の皇国史観、最近でも少子化、市町村合併など時代の移り変わりの影響を受けてきた。



名和長年は伯耆(ほうき)国(鳥取県)の出身。隠岐島に流刑されていた後醍醐天皇を助け、鎌倉幕府の倒幕に貢献する。楠木正成、結城親光、千種忠顕と並んで「三木一草」と称されて建武の新政で要職についたが、1336年、足利尊氏に討たれた。戦死した場所が、この公園の辺りとされる。江戸時代までは、「不遇の死を遂げた長年のたたりがあるとのうわさが広まり、人が近づかなかった」ともいわれている。



長年の評価は、明治に逆転。天皇中心の国づくりを目指す政府は、天皇を献身的に助けた長年に正三位の称号を贈り、1935(昭和10)年には従一位を授けた。当時の教科書には英雄として紹介され、太平洋戦争開戦直前の1939(昭和14)年には、没した地に功績をたたえる石碑(高さ約3m)が完成。終戦後、長年の名は教科書から消え、地元でも名和公園の由来を知らない人が増えたという。ところが、終戦から40年後の1986(昭和61)年に、また転機が訪れる。長年の出身地の鳥取県名和町から、没後650年を記念し、「石碑を管理してくださる聚楽学区と姉妹関係を結びたい」との要請があった。



その後、小学生が交互に訪問するようになり、名和町の子どもたちが西陣織の体験をするなど交流を深めていたが、今度は、聚楽学区の小学校が少子化の影響で1997(平成9)年3月に閉校。名和町も市町村合併で「大山町」となり、名前が消えた。交流事業も途絶えたままになっている。関係者の話によると、交流の予算付けも難しく、再開予定はないということだ。また、由来を知らない住民が増え出し、寂しい話。没後500年以上経って建立された石碑は、現在、閑静な住宅地にたたずんでいる。自分の名が戦意高揚に利用され、地域交流にも生かされた長年。このまま消え去ってしまうのだろうかと心配になる。



遺跡の創建は1886(明治19)年とされ、今の石碑は1939(昭和14)年に建てられた。現在は京都市の児童公園で、石碑は上京区の史蹟百選にも選ばれている…今京都。


 

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今京都 かんころ 2009/08/23 12:00 am

んころ
松かさ。「昔はカンコロ拾うてきて、たき付けにしたな」 燃料用に松かさを火中に入れると、カンコロと音を出す。京都市周辺でチンチロ・チンチリ・チンチラチン・チロリン・チンチクリ・カンチリなどというのも擬声語。洛北でいうマツノボンボン・ノボンボンのボンボンは果実のモモと同系の語。松ぼっくりの「ぼっくり」は「ふぐり(陰嚢)」から。洛北の岩倉でマツグリと呼ぶのは、クリの連想であろう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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蔵物語(274)




 

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