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rrbのブログ - 2009/03のエントリ

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今京都 泥仕合 2009/03/31 12:00 am

ろじあい…互いに相手の弱点や醜聞などを暴露して争うこと。救いがたい醜い争い。

いもので、明日で3月も終りだ。相変わらず平年より低い気温が続いていた。この時季に寒いのは堪える。桜の開花も足踏み状態だろうか。うららかな日和の日にカメラを持ってお出かけしたいものだが、いつに「うららかな日和」が来るのだろね。

ばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。

ーダ村…の情報を募集しています。詳細はここ(←クリック) よろしくお願いします。

盤の目・通り名  (旧フォトヴィレッジ 2006年10月13、14日掲載)



京都の街は基本的に碁盤の目状態になっているのは有名なこと。東西南北で交差する道路の名前を記入すれば、だいたいの住所がわかるようになっていてとても便利。といっても、京都人ならいざしらず、地方の人にはちょっとわかりづらい。たとえば「烏丸丸太町」(からすままるたまち)といえば烏丸通と丸太町通が交差するところを示す。これに「上(あ)がる」「下(さ)がる」「西入(にしい)る」「東入(ひがしい)る」をつけると大体通じる。また通り名は、歌になっていて、覚えやすいようにもなっている。この歌の話しは後に記載する。



元々、京都の街は、中国の長安(西安)をモデルに平安京のころに出来たもので、今の上京(かみぎょう)区と下京(しもぎょう)区ぐらいしかない小さいものだった。約400年ほど前に豊臣秀吉が現在の規模にしたという。ひとつの例でいうと、西陣織で有名な西陣は平安京のグリッドの上には乗ってなくて、秀吉の時代にようやく都の西北部に位置するようになった。現在では、西陣というと北は鷹峯(たかがみね)から南は丸太町(まるたまち),西は北野神社(きたのじんじゃ)から東は烏丸通(からすまどおり)までという大きな範囲となっている。応仁の乱で西軍の将であった山名宗全が陣を構えたのが縁で「西陣」というようになったらしいが、現在では、東軍の細川勝元の陣営も西陣地区に含まれている…ということだ。


(ブレブレだけれど、雰囲気が好きだったので掲載)

さて、京都の通り名の歌のお話。
横(東西)の通りの歌は、丸太町通から竹屋町通、夷川通、二条通、押小路通、御池通、姉小路、三条通、六角通、蛸薬師通、錦通、四条通、綾小路通、仏光寺通、高辻通、松原通、万寿寺通、五条通までを北からを歌っている。歌詞は、「まるたけえびすに、おしおいけ、あねさん、ろっかくたこにしき、しあやぶったか、まつまんごじょう」 漢字で書くと「丸竹夷二、押御池、姉三六角蛸錦、四綾仏高、松万五条」となる。



次に、縦(南北)の通りの歌は、寺町通、御幸町通、麩屋町通、富小路通、柳馬場通、堺町通、高倉通、間之町通、東洞院通、車屋町通、烏丸通、両替町通、室町通、衣棚通、新町通、釜座通、西洞院通、小川通、油小路通、醒ヶ井通、堀川通、葭屋町通、猪熊通、黒門通、大宮通、松屋町通、日暮通、智恵光院通、浄福寺通、千本通までを東から歌っている。歌詞は、「てらごこふやとみやなぎさかい、たかあいひがくるまやちょう、からすりょうがえむろころも、しんまちかまんざにしおがわ、あぶらさめがいほりかわのみず、よしやいのくまくろおおみや、まつひぐらしにちえこういん、じょうふくせんぼんはてはにしじん」 漢字で書くと「寺御幸麩屋富柳堺 高間東車屋町 烏両替室衣 新町釜座西小川 油醒ヶ井堀川の水 葭屋猪熊黒大宮 松日暮に智恵光院 浄福千本はては西陣」となる。



これを覚えるのも実は大変。けれど何気なく覚えておくと京都の街では結構役に立つのが不思議なところ。さらに、地図でみていただくとわかるんだけれど、この通りの歌になっているのは、上京(かみぎょう)から下京(しもぎょう)の範囲だ。先に触れたようにもともとの規模がこれぐらいしかない小さいものだったということによるものだろうか、というお話…今京都。 ※写真はEPSON R-D1sで撮った京都東山花灯路2009の光景で本文とは関係ないのであしからず。


 

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今京都 登竜門 2009/03/29 12:00 am

うりゅうもん…立身出世のきっかけとなるような関門や試験。
◇ちょっと予備知識 → 黄河上流に竜門という急流があり、そこを登ることができた鯉は竜になるという伝説から。

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暖かい春が来たらまた撮りに行きたいと思う…今京都。

蔵物語(250)



地蔵物語も250回となった。これからも力の続く限り掲載したい…今京都。


 

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今京都 桃源郷 2009/03/28 12:00 am

うげんきょう…俗世を離れた別天地。理想郷のこと。
◇ちょっと予備知識 → 中国の詩人の陶淵明が書いた「桃花源記」の中に出てくる理想郷から。「桃源」も同意。
                類義語に仙境(せんきょう)・桃花源(とうかげん)・仙界(せんかい)・
                武陵桃源(ぶりょうとうげん)がある。

年より気温が低いこの寒さは、天気予報によると4月の上旬まで続くということだ。一気に満開かと思われた桜も少し足踏み状態になるかも知れない。自然の力とは不思議なもので、なんやかんやといいながらも、平年通りの日程になるようになっているのかしら…とも思う。こういうことを体験すると、地球温暖化の事態を正常に戻そうと地球が一生懸命頑張って呼吸をしているように感じる。

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いくらべ(童謡物語第11弾)  (旧フォトヴィレッジ 2007年6月7日掲載)

「せいくらべ」
作詞:海野 厚 作曲:中山晋平

柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ
ちまきたべたべ 兄さんが はかってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ 何のこと やっと羽織の 紐のたけ

柱にもたれりゃ すぐ見える 遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして てんでに背伸していても
雪の帽子を ぬいでさえ 一はやっぱり 富士の山

小さい頃、5月5日がやってくると、なんとなく柱にもたれて背を測りたくなったのでは? 今ではマンション暮らしの子供たちも多くなったから、引っ越すときに柱に傷なんかついてたら大変と、この光景はあまり見られなくなったかも。第一、傷をつける柱がなかったりして。でも風情というか、お兄ちゃんが弟や妹の背を測ってあげるこの童謡は、どこか故郷を感じさせ、「あの時代」にタイムスリップさせてくれる要素を含んでいるような気がする。この童謡も謎がある。それは冒頭の詩。
 ♪ 柱のきずは おととしの 五月五日の 背くらべ
どうして「おととし」で「去年」ではないのか? そこには、病と闘った兄の悲しみがあった。



この童謡を作詞した海野厚(うんのあつし)は、1896(明治29)年8月12日に、静岡県静岡市の曲金で生まれた。7人兄弟の長男坊。厚が育った屋敷は2000坪もあった。その広大な敷地の隣は、海野家の分家である新家があり、そこが1000坪。さらにその隣に1000坪の新宅があったというから驚き。この一帯は海野家一族で占められていたことになるね。海野家の墓を弔う法蔵寺がすぐ前に建っており、その隣が厚たちが通った西豊田小学校。そこには、この歌の碑が建ち、学校の体育館の入り口には厚の顔と「せいくらべ」の歌詩が書かれたおおきな絵も掲げられているという。さらにここから日本一の富士山が見えるというから、
 ♪ 雪の帽子を ぬいでさえ 一はやっぱり 富士の山
は、厚の実体験から書かれていたといえる。厚はこの小学校から静岡中学校に進み、さらに可愛い弟妹たちを残して上京、その後早稲田大学へ入学する。当初俳人志望であったが、その後童謡作家へと変貌を遂げる。童謡集「子供達の歌」の第3集にこの詩と曲が発表されたのは1923(大正12)年5月のことだった。
 ♪ ちまきたべたべ
弟妹たちの背を測ってやっていた頃を思い出しながら、この詩を綴ったことになっている。「ちまき」とは、5月5日に食べるもち米粉、うるち米粉、くず粉などでつくったもちのこと。この「ちまき」をどうして端午の節句に食べるかというと、5月5日に中国湖南省北東部の川、汨羅河(べきらこう)に身を投げた英雄、屈原(くつげん)の霊を慰めるためである。投身後に屈原の姉が弟を弔うために川になげたのが「ちまき」だった。そのため「ちまき」には霊を慰める力、霊を祀る力があると信じられてきた。屈原の一件から5月には悪霊の仕業で亡くなる人が多いとか、5月に生まれてくる子供は悪霊に取り憑かれるとか考えられていた。5月生まれの子が無事に育つようにという願いから、5月5日に「ちまき」を食べるようになった。



東京に出て「子供達の歌」を発刊するかたわら、厚はたびたび故郷に帰っていた。
 ♪ ちまきたべたべ
弟妹たちの背を測ってやっていたといわれる。しかし、去年は帰ってやれなかった。だから、
 ♪ 柱のきずは おととしの
ままなのである。厚は東京で肺結核を患った。肺結核は今ではすぐに完治する病気であるが、当時はまだ空気感染する不治の病だった。幼い弟たちに移すわけにはいかないと厚はひとり東京で静養。だからこそ、
 ♪ 柱のきずは
おととしのままだ。去年は帰りたくても帰れなかった。しかし、厚は二度と弟たちの背を測ることはなかった。翌年、故郷に帰ることなくこの世を去った…という裏話がまことしやかに囁かれている。
が、真実は。



この「せいくらべ」は1923(大正12)年に発表される4年も前の1919(大正8)年に既に書かれていた記録があり、この詩をつくった翌年に海野厚は死んだということが当てはまらないのである。実は、俳句の師である渡辺水巴の父で花鳥画家として有名だった渡辺省亭が重体となり、4月初旬に他界。厚は省亭を恩師の父として崇め、「大先生」と呼んでいたほど。その大先生の追悼句会が5月5日に開かれ、それに参加していた。つまり去年の5月5日は肺結核のために帰郷できなかったのではないということである。な〜んだと思われるかも知れないけれど、どうもこれが真実。では、この童謡には本当は何が隠されているのか。厚は早稲田大学に入って、しばらくしてから、肺結核にかかった。この病気は、ゆっくりと病状が進行していく。すぐにどうこういう病気ではない。最初から寝たきりになるわけでもないし、気分がよければ仕事だってできる。それならば、なぜ4年前に書いた「せいくらべ」をこの時季に『子供達の歌』に引っ張りだしたのか。わざわざ古い作品を載せる必要がどこにあったのだろうか。



1923(大正12)年、厚の病状は相当進んでいたようである。実はこのときになって、やっと、
 ♪ 柱にもたれりゃ すぐ見える
の2番の詩を書き足したのである。4年前に書いた「せいくらべ」は1番だけのものだった。厚は小さい頃を思い出していた。今の寝ているだけの生活、人生を狂わせた病い。厚は淋しかった。そんな時に「2番の歌詩をつけろ」と仲間の中山晋平が厚に言い放った。晋平の目には気弱になっていく天才詩人が、病に侵されていく様を見ていられなかったのである。どうしたら厚を励ましてあげられるだろうか、どうしたら親兄弟が喜ぶだろうか…晋平は考えた。
当時売れっ子作曲家の晋平が、この詩に曲をつけてレコードにすることで励まそうとした。レコードにするには1番の詩だけでは短い。2番の歌詩が必要なのである。「厚、気力を持って2番の歌詩をつくれ」と、晋平は海野厚という将来有望な友人を失いたくなかった。気力で病気を吹き飛ばしてほしかった。厚の失いかけていた生きる望みが輝いてきた。「詩を書こう。もっと書こう」と、厚は、渾身の力を振り絞って病気に打ち克とうとした。黙々と詩を書き続ける。美しい詩ばかりだった。けれど、もう書けなかった。書こうとする気力はあるのだけれど、病魔がそれを許さなかった。



窓の外では子供たちが歌っている
 ♪ 柱のきずは おととしの
1925(大正14)年5月20日、昭和という時代を見ることもなく天才・海野厚は逝った。わずか28歳のあまりにも短い生涯。5月は人が死ぬ月。だから「ちまき」を食べなくてはいけなかったはずなのに…海野厚は逝った。仲間の晋平の願いもむなしく…海野厚は逝った。この詩の裏には熱い友達・仲間思いの気持ちとそれに応えようとする熱い思いが隠されていたのである。いつの時代でも「友情」とはいいものだ。しかし、平成の今の時代に「友情」を大切にしている子どもたちは本当にいるのだろうか…今京都。 ※写真はEPSON R-D1sで撮った京都東山花灯路2009の光景で本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第10弾「オウマ」はここ(←クリック)
★旧フォトヴィレッジで掲載した「童謡物語」はここまでで、通りゃんせ(童謡物語第12弾)へとつながる。


 

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今京都 鉄面皮 2009/03/26 12:00 am

つめんぴ…恥を恥とも思わない人。また、非常に厚かましいこと。
◇ちょっと予備知識 → 面の皮が鉄のように硬い、というたとえ。
                類義語に厚顔無恥(こうがんむち)がある。
                対義語は臆面(おくめん)。

に羽織袴姿やスーツ姿を最近見かける…と思ったら、卒業のシーズンだった。4月から勤める人、進学する人、様々に母校を飛び出していく。社会人となる人は今までに培った学問・知識以外に「知恵」が必要となる。学生の時のように、「試験に合格し単位を取得する」というような、はっきりと形に見える目的がなくなるのが社会人。「成果をあげて当り前」「できて当り前」の世界が社会だ。知識や学問は学校で学ぶことができるが、知恵は自分で開発するしかない。知恵を開発する一番の方法は、その仕事を好きになること。その仕事が好きになれば工夫をするようになる。工夫をすれば自ずと成果があがる。成果があがればさらにその仕事が好きになる。こんな言葉が「ふっ」と思い出された。

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ウマ(童謡物語第10弾)  (旧フォトヴィレッジ 2006年12月15日掲載)

「オウマ」
作詞:林 柳波 作曲:松島彜(津根)

オウマノ オヤコハ ナカヨシ コヨシ
イツデモ イッショニ ポックリ ポックリ アルク

オウマノ カアサン ヤサシイ カアサン
コウマヲ ミナガラ ポックリ ポックリ アルク

現在も子供たちが大好きな「オウマ」。えっ…大人も大好きだって!? それは「各馬ゲートインから一斉にスタート。第一コーナーを…」のお馬でしょ。ここでいう「オウマ」は童謡のこと。
さて、本題。この歌は最初、題名も歌詞も全部カタカナで記されていた。だから上の歌詞もカタカナとした。可愛らしい子馬と、それをやさしく見つめる母親が、本当に
 ♪ ポックリ ポックリ
歩いている、そんな姿が目に浮かんでくるような詩と曲のバランスのよさ。のどかな牧場…そんな光景が目に浮かんでくる、淡い優しい色彩の歌。この歌には、実はやるせない母心が秘められているという。



この歌が文部省唱歌として「ウタノホン(上)」(1年生用)の中で発表されたのは、1941(昭和16)年2月のこと。その4月から小学校は、国民学校という呼び名に改称された。「ウタノホン」は、その国民学校の芸能科(今の音楽)のために作られた教科書だった。日本は1931(昭和6)年の満州事変に始まり、翌1932(昭和7)年の上海事変、さらに1937(昭和12)年の日中戦争と、既に10年間も戦争の渦の中にいた。国民学校の第一の目標は「皇国民の練成」。練成は鍛えて立派になるという意味で、このときから児童のことを「少国民(しょうこくみん)」と呼ぶようになった。この時代につくられた歌であるから、「のどかな」雰囲気などあるはずがない。当時の男の子の夢は大きくなったら立派な兵隊さんになることだった。それが一番普通で、一番カッコイイ夢だった。「お国のために」の言葉はしっかりと子供にも浸透している時代だった。しかし、何故か「オウマ」の詩の裏には戦争奨励というより、かえって戦争反対の意思が見え隠れしているように感じられる。



この頃の馬はそれまでの農耕馬などのどかなイメージを想像させる動物から、戦場に赴き働く軍馬へと変わっていった。馬を「もの言わぬ戦士」と形容しているのがその証。「オウマ」の発表と同時に陸軍省選定の東宝映画「馬」が封切られている。この映画は戦争に役立つ立派な馬を育てよう…という主張がこめられていたのだが、その裏側には大事に育てた馬を戦場に駆り立て、犠牲にしてもいいのか? という反戦ともとれる気持ちが隠されていたという。そして「オウマ」の
 ♪ ヤサシイ カアサン コウマヲ ミナガラ
の部分は映画と同様に、子馬をやさしそうな目で、大事そうに見つめる母馬とは、戦場に送る年頃の男の子を持つ皇国の母たちのことではないだろうか…といわれている。母の瞳は子供の成長を楽しそうに、嬉しそうにいつも見つめている。馬とて親心は同じこと。馬は賢い動物である。人にもよくなつく。だからこそ昔から馬と人間は共存してきた。悲しいとき馬は涙を流すという。しかし、この子馬もいつかは戦場に駆り出される宿命。その時代の男の子たちと同じように。



「大きくなったら兵隊さんになりたい」「大きくなったらボクが母さんを守るために働くんだ」 と、子供たちの瞳はらんらんと輝いていた。
「そうかい、お国のために頑張るんだよ」 と、母も子供の頭をなでる。
しかし、母は本当は声を出して泣き出したかった。しっかり子供を抱きしめて、「戦争になんて行かないでおくれ」と叫びたかったに違いない。誰が可愛いわが子を、みすみす戦場に送りたいものか。誰が白木の箱に入れられて還ってくる子供を心底待っているものだろうか。「よくやった、でかしたぞ」と、お国のために死ぬのが立派、そう口では言ってみても、どこのどの母が本気でそんなことを心で思っているものか。このまま時が止まってくれたらいい…子供のままで、子馬のままでいて欲しい。そうしたら戦争に行かなくたっていいのだから。
 ♪ コウマヲ ミナガラ ポックリ ポックリ アルク
この歌は、母親たちの心の代弁だったのではないか。声に出して言えない、いや言ってはいけない、声なき声を密かに歌いこんだのではないか。



林柳波は1893(明治26)年に群馬県沼田市に生まれ、教授としても教鞭を取っている。国民学校の芸能科では、歌のほかに音感教育も始められている。理由は、音感の勉強も、敵機の飛行機の音を聞き分けられるようになるからいい、という事だそうだ。それを聞いた林柳波は、「ああ、ここまで日本は戦争のぬかるみにはまってしまったか」と絶句したという。「このままでは世界を敵にまわしてしまうのに」と思ったという。
しかし、そんなことを口に出すことは断固として許されない時代。そんな考えが少しでもバレると待っているものは死。そんな恐ろしい時代だった。林柳波の反抗心と最後の抵抗がこの歌にこめられているのではないか。子馬を優しく見つめる母馬、子供をやさしく見守る母親、戦争が全てを狂わせていった。やさしいまなざしのその奥には、やりきれない悲しみが潜んでいた。心の痛みが叫んでいた。明るく楽しい「オウマ」の歌は、
 ♪ イツデモ イッショニ
歩いていきたいと思う悲しい母の願いだった。戦争が終結して、子供が戦争に取られなくてもよい時代が早く訪れて欲しい、そんな林のむなしい抵抗の歌であった。



「臨時ニュースをお伝えします。大本営陸海軍部、午前6時発表。帝国陸海軍部隊は、本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり…」 寒風吹きすさぶ中、ラジオの声が淡々と日本の町に流れたのは、この歌を国民学校始めての1年生が習った年の師走8日、午前7時の時報の直後だった。
 ♪ オウマノ オヤコハ ナカヨシ コヨシ〜
時代は林のそんな抵抗、そんな願いを無惨にも断ち切った。真珠湾攻撃による太平洋戦争の開戦。その結末はご存知のとおり…今京都。 ※写真はEPSON R-D1sで撮った京都東山花灯路2009の光景とその他で本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第9弾「たきび」はここ(←クリック)


 

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今京都 張本人 2009/03/24 12:00 am

ょうほんにん…事件を引き起こすもとになった人。悪事を企てた人。
◇ちょっと予備知識 → 「張本」は事件の発端や原因のこと。
                類義語に首謀者(しゅぼうしゃ)がある。

光で京都にやってくる一部の人々は古い木造建築はすべて町家だと思っているらしい。「町家」は京都ブームの目玉であるが、正しい京町家にはちゃんとした基準がある。まず、「町家」の基本は、歴史的には豊臣秀吉の頃にできた。残念ながら、現存している京都の町家は明治以降のものだ。さて、その特徴であるが、ひとつめは、必ず通りに面していることがあげられる。入り口まで庭があったりするのは「町家」ではない。そして、狭い間口と対照的に、奥行きは60mにも及ぶ。これが「うなぎの寝床」といわれるゆえんである。そして、ふたつめは、通りに入り口があるから、たいていの「町家」では表の間で商売を行い、奥に家族の生活空間がある。この入り口で商売、奥に家族の生活空間という構成も不可欠な要素。京都の町を散策する際、こういう知識を持っていると意外と楽しいものである。

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きび(童謡物語第9弾)  (旧フォトヴィレッジ 2006年12月4日掲載)

「たきび」
作詞:巽 聖歌 作曲:渡辺 茂

かきねの かきねの 曲がり角  たきびだ たきびだ 落ち葉たき
あたろうか あたろうよ  北風ぴいぷう 吹いている

さざんか さざんか 咲いた道   たきびだ たきびだ 落ち葉たき
あたろうか あたろうよ   しもやけお手てが もうかゆい

こがらし こがらし 寒い道  たきびだ たきびだ 落ち葉たき
あたろうか あたろうよ  相談しながら 歩いてる

戦後から現代まで、ずっと音楽の教科書に選定され続けている童謡に「たきび」がある。
 ♪ たきびだ たきびだ 落ち葉たき
「落ち葉たき」とは何? と思う現代の子ども多いでは? 読んで字の如く、落ち葉を集めて火で焚くことなんだけれど、最近はこんな光景をトンと見なくなった。
 ♪ あたろうか あたろうよ
と、焚き火を経験したことがない子ども多いことだろう。都会の子だったら、なおさらである。
 ♪ しもやけお手てが もうかゆい
北国ならまだしも、しもやけになった手を急に暖めると血の巡りがよくなって、かゆくなるという実体験をした子ども少ないかも。それなのにこの歌はしっかりと生き抜いてきた。しかし、この童謡の歩んできた道は決して平坦ではなく、肩身の狭いものだった。何度も何度も「たきび」の火は消されそうになっていたという。



この歌の童謡碑は作詞者の巽聖歌の出身地、岩手県紫波郡紫波町の紫波運動公園の中にある。今も自然が残るこの地は「たきび」の故郷としてはもってこい。だが、東京都中野区上高田、西武新宿線、新井薬師前駅の南東300mほどの住宅街にある旧家の入り口にも『「たきび」のうた 発祥の地』という立て札が立っているという。
実は、聖歌はこの近所の現在の上高田4丁目に住んでいた。この立て札の立っている家は広い敷地に大きな庭木が何本も残り、長く続く竹垣は、まさに、
 ♪ かきねの かきねの 曲がり角
だという。そこには時間を置き忘れてきたような空間があり、武蔵野の面影が残されている。聖歌は、自分の家からほど近いこの垣根の細道を、毎日仕事の行き帰りの通り道にしていた。今は、けやきの木がそびえているらしいが、この詩を作った当時は本当に、
 ♪ さざんか さざんか
が植えられていただろうし、冬には庭で、
 ♪ たきびだ たきびだ 落ち葉たき
する様子を文字通り垣間見たに違いない。



そんな中から生まれた「たきび」に渡辺茂が曲をつけ「ラジオ少国民」という放送テキストに掲載されたのは、1941(昭和16)年の12月号。今でいえば幼児番組の「おかあさんといっしょ」の今月の中の一曲のようなもの。それにともなって12月9日からNHKラジオ「幼児の時間」という番組内で発表。しかし、12月8日に突如勃発したハワイ真珠湾攻撃、日米開戦のため、翌日10日の放送分で放送が急遽中止になる。戦況をこと細かに報告する番組編成となり、11日から「幼児の時間」は中止された。しかも軍から「たきび」の歌にクレームがついた。たきびは敵機の目印になり、攻撃の目標になるから、この歌の放送を禁じる。たきびをしている近くには、当然人がいるし、家もあるから、敵から攻撃されないとは限らない。おまけに物資不足の時代。落ち葉とて貴重な燃料だというのだ。
 ♪ あたろうか あたろうよ
などと、楽しみながら落ち葉たきをしている場合ではないということ。落ち葉を燃料にご飯やお風呂をたいたりすることだってできるというのである。そんなこんなで「たきび」の火は、生まれてすぐに消された。わずか二度だけしか放送されぬまま消えた。またしても戦争の影響。



戦争の影響で消された「たきび」の火。ところが「たきび」は戦争時代を経て、戦後、再び甦るのである。1949(昭和24)年8月1日からNHKは「うたのおばさん」の放送を開始。この番組の中の「うたのおけいこ」というコーナーで新しい童謡を続々と発表。「めだかの学校」「かわいいかくれんぼ」「ぞうさん」などが次々と作られていった。そんな中に「たきび」があった。消したはずの「たきび」の火種はまだくすぶっていたのである。たちまち子どもたちは「たきび」が大好きになった。さらに、1952(昭和27)年からは教科書にも選曲されるようになって「たきび」の火の勢いはよく燃え盛ったのである。そんな最中のこと、またもや「たきび」の火を消そうという動きが始まる。軍に代わってクレームを出したのは消防庁。理由は防火教育上よくない、街角でのたきびは奨励できないというのである。しかし「たきび」の歌は、既に子どもたちに浸透し定着していた。いくら消火するのが仕事の消防といえども「たきび」の歌を完全に消火することができなかったのである。困った消防庁は「それならば…」と条件をつける。今後、教科書や歌集にこの歌の詩や譜面を載せる際には、必ずその脇に水の入ったバケツや監視役の大人を挿入絵として描くように…と。



なんとか歌は生き残ったが、時を経ると今度は「たきび」自体をする場所が少なくなってしまった。それでも「たきび」は子どもたちの心の中で燃え続けていた。そしていつの頃からか「たきびをしてみたい」という願望に変わっていった。今でも続いているかどうかは定かではないが、『「たきび」のうた発祥の地』では、毎年一回、中野区内の親子を集めて
 ♪ 落ち葉たき
をしながら、やきいもを作る行事があるという。さらに歌に歌われる「たきび」を体験させようと幼稚園や学校では社会学習として「たきび」を行っているところもあるという。しかし、どうも「たきび」はやはり肩身が狭いようだ。現代では、「ダイオキシンの問題」が勃発する。まったくもって生まれてから現代にいたるまでクレーム続きの歌。でも、それでも「たきび」の歌は、歌い続けられるだろう。いや、歌われ続けて欲しい、その火を絶やさずにいて欲しい。
 ♪ あたろうか あたろうよ
の会話形式の詩には、心洗われるような忘れさせたくない優しさが、満ち溢れている。


(ブレブレ゛けど雰囲気があったので…)

寒い冬、みんなで焚き火を囲むのもいい。ぷ〜んと香る焼き芋の匂い。(ん〜たまらん!) けれど、くれぐれも火の用心には細心の注意を!…今京都。 ※写真はEPSON R-D1sで撮った京都東山花灯路2009の光景で本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第8弾「黄金虫(こがねむし)」はここ(←クリック)


 

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