rrbのブログ - 2009/03のエントリ
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泥仕合2009/03/31 12:00 am
どろじあい…互いに相手の弱点や醜聞などを暴露して争うこと。救いがたい醜い争い。
早いもので、明日で3月も終りだ。相変わらず平年より低い気温が続いていた。この時季に寒いのは堪える。桜の開花も足踏み状態だろうか。うららかな日和の日にカメラを持ってお出かけしたいものだが、いつに「うららかな日和」が来るのだろね。
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
ソーダ村…の情報を募集しています。詳細はここ(←クリック) よろしくお願いします。
碁盤の目・通り名 (旧フォトヴィレッジ 2006年10月13、14日掲載)

京都の街は基本的に碁盤の目状態になっているのは有名なこと。東西南北で交差する道路の名前を記入すれば、だいたいの住所がわかるようになっていてとても便利。といっても、京都人ならいざしらず、地方の人にはちょっとわかりづらい。たとえば「烏丸丸太町」(からすままるたまち)といえば烏丸通と丸太町通が交差するところを示す。これに「上(あ)がる」「下(さ)がる」「西入(にしい)る」「東入(ひがしい)る」をつけると大体通じる。また通り名は、歌になっていて、覚えやすいようにもなっている。この歌の話しは後に記載する。

元々、京都の街は、中国の長安(西安)をモデルに平安京のころに出来たもので、今の上京(かみぎょう)区と下京(しもぎょう)区ぐらいしかない小さいものだった。約400年ほど前に豊臣秀吉が現在の規模にしたという。ひとつの例でいうと、西陣織で有名な西陣は平安京のグリッドの上には乗ってなくて、秀吉の時代にようやく都の西北部に位置するようになった。現在では、西陣というと北は鷹峯(たかがみね)から南は丸太町(まるたまち),西は北野神社(きたのじんじゃ)から東は烏丸通(からすまどおり)までという大きな範囲となっている。応仁の乱で西軍の将であった山名宗全が陣を構えたのが縁で「西陣」というようになったらしいが、現在では、東軍の細川勝元の陣営も西陣地区に含まれている…ということだ。

(ブレブレだけれど、雰囲気が好きだったので掲載)
さて、京都の通り名の歌のお話。
横(東西)の通りの歌は、丸太町通から竹屋町通、夷川通、二条通、押小路通、御池通、姉小路、三条通、六角通、蛸薬師通、錦通、四条通、綾小路通、仏光寺通、高辻通、松原通、万寿寺通、五条通までを北からを歌っている。歌詞は、「まるたけえびすに、おしおいけ、あねさん、ろっかくたこにしき、しあやぶったか、まつまんごじょう」 漢字で書くと「丸竹夷二、押御池、姉三六角蛸錦、四綾仏高、松万五条」となる。

次に、縦(南北)の通りの歌は、寺町通、御幸町通、麩屋町通、富小路通、柳馬場通、堺町通、高倉通、間之町通、東洞院通、車屋町通、烏丸通、両替町通、室町通、衣棚通、新町通、釜座通、西洞院通、小川通、油小路通、醒ヶ井通、堀川通、葭屋町通、猪熊通、黒門通、大宮通、松屋町通、日暮通、智恵光院通、浄福寺通、千本通までを東から歌っている。歌詞は、「てらごこふやとみやなぎさかい、たかあいひがくるまやちょう、からすりょうがえむろころも、しんまちかまんざにしおがわ、あぶらさめがいほりかわのみず、よしやいのくまくろおおみや、まつひぐらしにちえこういん、じょうふくせんぼんはてはにしじん」 漢字で書くと「寺御幸麩屋富柳堺 高間東車屋町 烏両替室衣 新町釜座西小川 油醒ヶ井堀川の水 葭屋猪熊黒大宮 松日暮に智恵光院 浄福千本はては西陣」となる。

これを覚えるのも実は大変。けれど何気なく覚えておくと京都の街では結構役に立つのが不思議なところ。さらに、地図でみていただくとわかるんだけれど、この通りの歌になっているのは、上京(かみぎょう)から下京(しもぎょう)の範囲だ。先に触れたようにもともとの規模がこれぐらいしかない小さいものだったということによるものだろうか、というお話…今京都。 ※写真はEPSON R-D1sで撮った京都東山花灯路2009の光景で本文とは関係ないのであしからず。

早いもので、明日で3月も終りだ。相変わらず平年より低い気温が続いていた。この時季に寒いのは堪える。桜の開花も足踏み状態だろうか。うららかな日和の日にカメラを持ってお出かけしたいものだが、いつに「うららかな日和」が来るのだろね。
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碁盤の目・通り名 (旧フォトヴィレッジ 2006年10月13、14日掲載)

京都の街は基本的に碁盤の目状態になっているのは有名なこと。東西南北で交差する道路の名前を記入すれば、だいたいの住所がわかるようになっていてとても便利。といっても、京都人ならいざしらず、地方の人にはちょっとわかりづらい。たとえば「烏丸丸太町」(からすままるたまち)といえば烏丸通と丸太町通が交差するところを示す。これに「上(あ)がる」「下(さ)がる」「西入(にしい)る」「東入(ひがしい)る」をつけると大体通じる。また通り名は、歌になっていて、覚えやすいようにもなっている。この歌の話しは後に記載する。

元々、京都の街は、中国の長安(西安)をモデルに平安京のころに出来たもので、今の上京(かみぎょう)区と下京(しもぎょう)区ぐらいしかない小さいものだった。約400年ほど前に豊臣秀吉が現在の規模にしたという。ひとつの例でいうと、西陣織で有名な西陣は平安京のグリッドの上には乗ってなくて、秀吉の時代にようやく都の西北部に位置するようになった。現在では、西陣というと北は鷹峯(たかがみね)から南は丸太町(まるたまち),西は北野神社(きたのじんじゃ)から東は烏丸通(からすまどおり)までという大きな範囲となっている。応仁の乱で西軍の将であった山名宗全が陣を構えたのが縁で「西陣」というようになったらしいが、現在では、東軍の細川勝元の陣営も西陣地区に含まれている…ということだ。

(ブレブレだけれど、雰囲気が好きだったので掲載)
さて、京都の通り名の歌のお話。
横(東西)の通りの歌は、丸太町通から竹屋町通、夷川通、二条通、押小路通、御池通、姉小路、三条通、六角通、蛸薬師通、錦通、四条通、綾小路通、仏光寺通、高辻通、松原通、万寿寺通、五条通までを北からを歌っている。歌詞は、「まるたけえびすに、おしおいけ、あねさん、ろっかくたこにしき、しあやぶったか、まつまんごじょう」 漢字で書くと「丸竹夷二、押御池、姉三六角蛸錦、四綾仏高、松万五条」となる。

次に、縦(南北)の通りの歌は、寺町通、御幸町通、麩屋町通、富小路通、柳馬場通、堺町通、高倉通、間之町通、東洞院通、車屋町通、烏丸通、両替町通、室町通、衣棚通、新町通、釜座通、西洞院通、小川通、油小路通、醒ヶ井通、堀川通、葭屋町通、猪熊通、黒門通、大宮通、松屋町通、日暮通、智恵光院通、浄福寺通、千本通までを東から歌っている。歌詞は、「てらごこふやとみやなぎさかい、たかあいひがくるまやちょう、からすりょうがえむろころも、しんまちかまんざにしおがわ、あぶらさめがいほりかわのみず、よしやいのくまくろおおみや、まつひぐらしにちえこういん、じょうふくせんぼんはてはにしじん」 漢字で書くと「寺御幸麩屋富柳堺 高間東車屋町 烏両替室衣 新町釜座西小川 油醒ヶ井堀川の水 葭屋猪熊黒大宮 松日暮に智恵光院 浄福千本はては西陣」となる。

これを覚えるのも実は大変。けれど何気なく覚えておくと京都の街では結構役に立つのが不思議なところ。さらに、地図でみていただくとわかるんだけれど、この通りの歌になっているのは、上京(かみぎょう)から下京(しもぎょう)の範囲だ。先に触れたようにもともとの規模がこれぐらいしかない小さいものだったということによるものだろうか、というお話…今京都。 ※写真はEPSON R-D1sで撮った京都東山花灯路2009の光景で本文とは関係ないのであしからず。


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